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<春夏秋冬>

発行日2005/11/10
すずき眼科  鈴木 明子
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床上1mの余裕
 
 「泥棒を捕まえて縄絢い」と言いますが、用意周到な縄を持った泥棒に捕まっているようなそんな気持ちにいつも襲われる私です。医師会報の編集員になって八年、編集後記を書こうと机に向かうときも何時もそうです。開業して十年、ふとした瞬間に「この患者さん、年をとったな。」と思うことがあります。そのくらい年月は流れているのです。でも、編集員暦八年の私は相も変わらず未熟で、他の編集員の方々の足を引っ張らないようにするのが精一杯の状況で底辺を右往左往しているのです。私の発想に幅がない、知識に幅がない、行動に幅がない、趣味に幅がない、才能に幅がない、つまりは人間性に幅がないと言うことなのでしょうか。
 「30cmの板を床に置いて、その上を歩くように言われたとき、大抵の人間は何のためらいもなくその上を歩くだろう。しかし、その板が床から1m上に置いたとき、3m上に置いたとき、5m上に置いたときはどうだろう。高所に置かれた板を床の上の板と同じように歩くことが出来る自信、それが余裕というものだ。」とひとに言われたことがあります。5mとは言いません。せめて1m上を歩く余裕を私も欲しいものです。私は余裕というものはその一つ一つを一生懸命継続することで生まれるものだと信じていました。継続は力なり!そう信じて疑いませんでした。
 でも最近はそうとも言えないようだなと思うようになりました。毎日毎日繰り返してきた医師としての仕事もそうです。家事もそうです。以前と同じ仕事量、いえむしろ少ない仕事量をこなすのに以前より時間も体力も使っている自分に気づくようになったからです。どうやら、日々悪戦苦闘しているうち、余裕が生まれる前に能力の衰退が始まったらしいのです。最近そのことに気づいて呆然としています。PCをはじめ色々な機器が発達し、以前より間違いもなく、迅速にできるように総てが進化している筈なのに、それを使いこなす技量は退化し、これまで培ってきたと思われる能力すらも退化し、新しいことはちっとも覚えられなくて、今まで覚えたことさえも抜け落ちていきます。私から余裕という言葉は益々遠いものとなってしまいました。私はどうしたら良いのでしょう。Help me!Help this poor woman!(中学の英語劇で覚えたこんな台詞は何故かしっかり覚えています。)
 こんな私に残された、余裕への最後の切り札。それは断り上手。これではないかと最近思うようになりました。能力もない上に頼まれると嫌とは言えず、頼られると突き放せない。これが地上の板しか歩けない自分を生み出しているように思えてならないからです。「私、出来ません。」この言葉を上手に使えるようになりたい。それが今の私の願いです。「でも、これ以上何もしなくなったら貴方、惚け惚けになっちゃうんじゃない?」という声も聞こえます。そうなのよね。ということは私は一生涯、余裕という言葉とは無縁なのでしょうか。でも私、床上1mの余裕が欲しい!
 
 春夏秋冬 <床上1mの余裕> から