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<春夏秋冬>

発行日2004/06/10
秋田組合総合病院  犬上  篤
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音痴
 
 春の歓送迎会シーズンは苦手である。幼少期に父が遠くから労働組合の「聞け万国の労働者」を歌いながら帰ってきた記憶がある。その頃はうまいかどうかはわからなかった。母はよく炊事・洗濯等の時、歌っていた記憶がある。 小学校低学年の時は音楽が嫌いで、音楽の授業参観日は音楽室の後ろに隠れていた。5・6年の頃には縦笛(今はリコーダー?)が必須で始めたが、学芸会では選ばれて吹いていた記憶がある。この頃は自分は音楽が好きで、音痴ではないと思っていた。
 中学に入ってオーケストラ部に入って、トロンボーン、コルネットを始めた時に小学校の音楽の先生からどういう心境の変化かと聞かれたことがあった。小学校の先生には私は音楽嫌いの音痴と映っていたのとわかった。中学ではよく演奏会にも参加していた。音楽の先生は2人いて、最近リメークされている「手のひらに太陽を」の作曲者で、音楽の教科書にはないような曲もオーケストラで演奏していたので音楽が楽しくなり始めていた。その頃、朝日ジュニァオーケストラの試験も受けて参加していたが、ほとんどのメンバーが初見でどんな曲でも演奏するので、この頃は自分にはやはり音楽の素養は足りないのかと思っていた。高校に入ってもブラスバンド部に入りコルネットを担当していた。演奏会にもよく参加し音楽会の前日は部室に泊り込むなど、素養の足りなさを忘れてかなり熱中していた。高2の頃に朝日ジュニアオーケストラは辞めていた。
 浪人、大学時代は全く音楽からは離れヨットしかしていなかった。しかし、ヨットの建造費を捻出するために当時はどの大学もよくダンスパーティーを開催していた。入部とともに1年生は、中川三郎ダンス教室に入らされた。ここで私と親友の二人してリズム感がわるいことを指摘された。一応タンゴまで習ったがものにはなっていない。入局してから医局旅行で、何回かカラオケで歌ったことがあった。当時はカラオケがはしりで皆が歌ったものであった。しかし妻と付き合い始めた時、私の歌があまりにもひどいので可笑しかったと後で言われた時はショックであった。自分では音痴と思っていなかったので落ち込んでしまった。それ以来カラオケのある店には極力行かないようにし、2次会でカラオケボックスにいってもほとんど歌わないようにしている。妻と子供たちはよくカラオケボックスに行っているが、私は家族とは行ったことはない。妻から言われた時のショックからいまだに立ち直れない状態である。
 付き合い程度にはカラオケをしないとならないのはわかっているが、やはり私は音痴なのである。



 
 春夏秋冬 <音痴> から