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<春夏秋冬>

発行日2021/07/10
平野いたみのクリニック  平野 勝介
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たそがれ専門医
 
 コロナ禍の昨年秋、日本麻酔科学会から赤字で【重要】と記される1枚の簡易書留葉書が届いた。裏には所々に赤字の、ご丁寧に赤の下線まである文章で、期限までに申請書類の提出がない場合、認定資格を喪失します。5年に1度学会出席点をかき集めて、申請書類には症例数(最近は全麻症例は無し)や症例の内容など大変な思いで記載し、お金を添えて提出していた。5年前、もう年だし申請は最後にしようと考えたのは事実だが5年の経過が速く、コロナ禍もあってすっかり忘れていたところに、この事務的な葉書が届いた。腹立たしく感じる一方で、一抹の寂しさも込み上げてきた。現在、専門医の数は100を超えているようだ。昭和37年に日本麻酔科学会が「指導医」を作ったのが我が国の専門医制度の始まりである。秋田大学の初代麻酔科教授に聞いた話では、「俺が指導してやった奴が試験官だったのだぞ」。新しい制度はいつもこの様な混乱のスタートなのだ。しかし麻酔科医としては是非とも欲しい資格である。当時(昭和50年代)の麻酔科指導医の試験は、筆記試験、口頭試験、実地試験があり、筆記試験のみ麻酔科経験3年で受けることが出来、後は5年の麻酔科経験が必要であった。医師国家試験の余韻が残る4年目に指導医の筆記試験を受けることにしたが、私はいつも追い詰められないとやる気が起きず、9月の試験に懸命に勉強し始めたのはお盆過ぎだった。東京での筆記試験は1時間後、無事に合格発表されて同僚と祝杯を挙げ、夜行寝台特急で帰秋した。朝の7時頃、秋田駅の改札に妻が歩いて迎えに来ていた。「ジッと待っていられなくて」、妊娠7か月だったのに。麻酔科入局5年が過ぎて、口頭試験を受ける資格ができた。この頃になると国家試験の余韻はすっかり無くなり、麻酔学書を何となく眺める日々が続いた。この年の試験会場は名古屋だった。試験官は6名で、一番の部屋から訪ねて試験された。1人目は女傑と言われた教授で、必死に答えたのが答えにならず机を叩いて怒鳴られてしまった。頭が真っ白のまま二番の部屋に入った。優しい声で「怒りませんから落ち着いて答えて下さい」この言葉に救われた。口頭試験に合格すると、最後は実地試験であるが、試験官が秋田まで来て行うもので、患者が死なない限り恐らく合格する。その夜は教授、准教授らとともに料亭でご接待である。落ちる訳がない。専門医とは専門領域で、一定の専門性を有し標準的な医療や先端医療の情報を患者に提供できる医師としている。この簡易書留葉書は若かったあの頃の記憶を蘇らせ、そこから人生が耽々と過ぎて行った。あの時、貰った「麻酔指導医」の証を真っ先に妻に見せた。「よかったね・・・。これで十分だから後は止めとけ。」「えぇ!」「悪いこと言わないから。」
 
 春夏秋冬 <たそがれ専門医> から