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<春夏秋冬>

発行日2021/04/10
秋田赤十字病院  下田 直威
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志津川の思い出
 
 東日本大震災から10年。あの日のことについては、皆それぞれに記憶されていることだろう。ここに改めて犠牲になられた方々の冥福を祈るとともに、被害を受けた方々が少しでも癒されることを願っている。
 私は、あの日を秋田市内の某病院への出張中に迎えた。車での帰宅には停電による信号停止のため長時間を要し、街は真っ暗闇となっていた。空に近かったガソリンタンクはしばらく補給することができず、今につながる自転車通勤を始めるきっかけとなった。
 実はそこからさかのぼることさらに18年前の平成5年3月。私はのちに隣の歌津町と合併して現在の南三陸町となった志津川町の公立志津川総合病院に赴任したのだった。学位研究を終えたばかりで新婚時代だった。病院は志津川港に隣接した街中にあったが、宿舎は街から離れた志津川湾に面する崖の上の高台にあり、隣には「南三陸ホテル観洋」がある風光明媚な所だった(青空駐車の愛車はウミネコの糞だらけになったが)。仕事が終わると、透析室の技師さんらと登米町のカッパマラソンへの出場を目指して、港の堤防に面した町立グランドでランニングをしたりした。ご主人が漁師をしている看護師さんも多く、アワビやサンマを箱で頂いたが処理しきれずに困ったこともあった。港近くの居酒屋で飲めば、翌朝には外来の看護師さんに前夜の行動をすべて把握されてしまっているような小さな街だったが、人々の心温かい、のどかな生活であった。訳あって1年弱で大学に戻ることになってしまったが、宿舎が街から離れていることに妻は不満だったので、もう少し長く居たら低地にある街中に引っ越したであろうし、そのまま勤務を続けていたら、あの津波の犠牲となっていたかも知れない。そのようなわけで南三陸町には強い思い入れがあり、4階までを津波に直撃されて満身創痍で瓦礫の中に建つあの病院をテレビの映像で見たときには愕然とした。動けない患者さんの多くが犠牲になり、患者さんを守ろうとした職員も命を失った。
 震災の翌年、何としてもとの想いから志津川(南三陸町)を訪ね、ホテル観洋に泊まった。高台にあった宿舎は、古くなりながらも残っていたが、志津川港に隣接した街は、仮設の橋や道路に工事車両が行きかい、いくつかの鉄筋建築物が無残な姿で残っていたが、あちこちに未処理の瓦礫の山がある、ほとんど何もない更地となっていた。往時の街の生活を思い出すと、現地で被害にあった方々とは比べようもないことだが、胸にこみ上げてくるものを感じ、復興を心から応援したいと思った。とりあえずは仮設の「さんさん商店街」で海産物を買い込むことしかできなかったが、これからも折に触れ南三陸町を訪れて復興を見届けたいと思う。
 
 春夏秋冬 <志津川の思い出> から