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<ペンリレー>

発行日2003/02/10
北嶋内科医院  北嶋益二
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草野球の思い出
 
 現在の秋田県自動車免許センターのある場所は、昔、青少年更生施設の千秋学園だった。道路を隔てて南東側のやや小高い所に、97病床の国家公務員共済病院、くわしくは(共済組合連合会秋田病院)があった。初代院長は弘前大学内科の大池弥三郎教授が兼務の形で赴任され昭和33年~37年まで勤務された。昭和37年からは斎藤秀夫先生、昭和40年から中山広信先生、昭和43年からは柿崎長蔵先生が院長をつとめられた。その後共済病院は昭和51年王2月末で廃止となり、昭和52年1月より市立秋田総合病院割山分院として存続した。私は日赤病院内科勤務の後、昭和33年より7年間当院の内科に勤務、色々な思い出を残してその後現在地に開業致しました。
 病院の敷地は約一万坪、松林に囲まれた海風の通る土地で、夏の宵にはマツヨイグサ(待宵草)が一面に鮮かな黄色い花を咲かせて居る風景は本当に見事でした。
 昼休みは空地でよくキャッチボールをした。野球好きの職員でチームをつくり、各人背番号をつけたユニホームを着用。私は当時の自分の年令をそのまま36番とつけた。ポジションはショート、打順は殆ど一番でした。
 千秋学園には野球場があり、少年野球チームもあったので、よく試合をさせてもらった。成績は勝ったり負けたりで、何よりも試合が終ってからの反省会がたのしみで試合に汗を流したという事でしょうか。
 市内の色々の職場との試合にもよく参加しました。市営八橋球場でやった時(相手チームの名前は忘れましたが)私はまぐれで二塁打を打ったことがありました。また中央病院(当時の監督は眼科の土方先生)と戦った時、レフトを守っていて、フライを取りそこねて相手に大量得点を与えてしまったこと、又秋田医師会チームに参加させてもらい、三共レッドソックス女子チームと対戦した時、私はチームワークのよくとれた技術のすぐれたその女子チームのうまさに感心させられた事をおぼえております。

 小泉薬局チームともよく対戦しました。故人になられた憲雄社長が、ショートかセカンドを守っていて、試合中よく声を出して居られたことがなつかしく思い出されます。勝敗を抜きにして試合後の反省会がこの上なく愉しかったことを今でもはっきりおぼえています。
 現在風力発電の風車が立っている所は、空港でした。昭和36年の秋田国体の時には、プロペラ機(YS11?)が発着しておりました。空港の脇にはクレー射撃場で、国体の救護班として病院から派遣され、近くで射撃が見学出来、その迫力に感心したことも思い出します。今は共済病院も、千秋学園の野球場もなくなり、あたりは沢山の住宅が建って昔の面影をしのぶことも出来ません。ただ風力発電の柱だけが珍しい風景として今の私にひとつの刺激を与えてくれます。
 つい先頃、共済病院で縮に勤務した斎藤秀夫先生が亡くなり一尚更のこと割山の病院の思い出は遠くへ去ってしまったことを、つくづくと感じさせられます。
 ペンリレーの次の走者には一戸医院の一戸忠先生にお願い致します。
 
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