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<ペンリレー>

発行日2002/09/10
岩渕内科胃腸科クリニック  岩渕 朗
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私はゴールド
 
 かつて私の大学時代に週刊少年マガジンに連載されていた「バリバリ伝説」という漫画をご存じだろうか。私と同世代の先生たちは皆さん一度は読んだことがあると思う。通称「バリ伝」。私はこの漫画を読むために当時毎号少年マガジンを買っていた。そして単行本も同時に買い揃えた。現在も年に1~2回は読むであろうか。
 私は子供の頃から二輪と四輪が大好きで、幼稚園の頃から今は亡き親父に18歳になったら必ず自動車の免許を取らせてもらえる約束をしていた(と自分では記憶していた)。16歳の時本当は自動二輪の免許が取りたかったのだが現チャリの免許しか取らせてもらえなかった。当時高校生は確か三無い運動やらで免許は取りづらかったことを思うとよく取らせてくれたものである。しかし私があと1年早く生まれていたら自動二輪免許は、受けるだけで大型二輪が取れた時代だったのだ。18歳になったとき幼稚園からの約束だからと普通免許を取った。ただし、親父がその時、取らせてやるが高校生の内は車は運転させないぞ、と言ったがなし崩しになったのは当然の成り行きである。
 大学入学と同時に私はどうしても二輪に乗りたかった。二輪は危険だからと渋る親を説得して中型自動二輪免許を取得、愛車は名車CBX400F、当時「バリ伝」に傾倒していた私はすぐにはまった。しかも時代は中免、二一ハンの時代で巷にゃわんさとライバルがいた。何のライバルかと言えば、ずばりシグナル・グランプリである。夜の環八、R246、丁度二輪車専用停止線が設定された頃で信号で並ぶと必ずアクセルを煽る奴がいる。それはもう暗黙の了解で、シグナルブルーで猛然とダッシュするのである。次の赤信号までダーッシュ、またはブッチギるまでこれを繰り返すのである。これは単なる直線番長だけでは敗けてしまう。都内の道は複雑でコーナーはもちろん、路面の凸凹、オーバースルー、アンダースルー何でもありで、また四輪の間をぬって走るのはかなりの高等テクニックを要求された。私は「バリ伝」の主人公巨摩郡ほどの才能はなかったが、常にcornering artist を目指していた。ステップを擦って火花が散るなんてことは当たり前だった。そしてコケて、ある事故を契機に二輪から卒業した。
 もともと四輪は運転が好きで、人の成長過程からみると徒歩→三輪車→自転車→原チャリ→自動二輪→普通乗用車とちゃんとステップを踏んで階段を上がってきている。しかし本質に変化はない。二輪でシグナル・グランプリが当たり前だった奴が四輪になって急におとなしくなるわけがない。そしてcornering artistを目指していた。モットーは『なんびとたりともオラの前は走らせない』であった。目的地までガソリンスタンド、トイレ以外は止まらない。《せまい日本、そんなに急いでどこに行く》という交通標語があるが、私には当てはまらなかった。どんなに時間に余裕があっても、ひとたびハンドルを握るとただひたすら先行車を追い抜かなければならないのである。私はハンドルを握ると性格が変わる人だった。1970年代にスーパーカーブームで「ロ一夕スの狼」という漫画があった。当然私は夢中になってこれを読んだ。秋田にランボルギ一二・カウンタックやフェラーリ・ベルリネッタボクサーが来たときは展示会まで足を運んだものである。今現在も外国の高性能車に乗ってみたいと思うことはあってもそれは現実的ではない。なぜならばこれらはすべて値段が高いうえに左ハンドルだから。私のような性格ではニッポンの、特に秋田のような道では右ハンドルでなければならない。ちなみに、我が家の愛犬は私がドライブする車が高速域になると『アビないよ、アビないよ』と吠える。
 そんな私も今では従業員をかかえる院長先生になってしまい、また運転する時間もめっきり少なくなり秋田市内をうろつく程度である。運転する機会が減れば当然テクニックは下手になるしスピード感も鈍ってくる。まして一家の大黒柱?最近は運転も少し自重気味。
 最後に、正宗研先生の退官記念文集の中でも書いたことだが、私を少しでも知る人は、私がゴールド免許であると言うと、それはおかしい、不公平だという。前回から免許更新してもなお平成14年8月20日現在、私のライセンスカラーはゴールドである。
 
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