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<ペンリレー>

発行日2002/06/10
森田整形外科医院  森田裕己
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個人的な体験-秋田弁と関西弁-
 
 私は和歌山県にある弘法大師が開いた高野山の近くの紀ノ川沿いの小さな町で生まれ、18才まで過ごしました。その後昭和51年秋田大学に人学し、医学生の6年間と医師になってからの20年間、途中2年間県外で過ごした期間を除けば、計24年間秋田で過ごしたことになります。関西育ちの人間が秋田にきて一番苦労したのは、やはり言葉でした。入学が決まった時点で、秋田大学の生協に依頼したので、住む下宿は決まっていました。昭和51年4月某日、生協から送られてきた下宿の住所のメモを持って秋田駅に降り立ちました。下宿までの道を聞くために、秋田駅横にあった当時のジャスコの隣の派出所に人り、警察官とメモを見ながら話をしました。たぶん今の自分なら理解できたのだとは思うのですが、当時の私にとっては、その警察官の言繁はまるで外国語のようでした。途中で何度も聞き返すのですが全く通じません。バス乗り場でどこ行きのバスに乗ればいいかを聞いてもさっぱり分らず、仕方なく交番を出て、タクシー乗り場に向かい、タクシーを拾いました。そこでもタクシードライバーの喋ることが理解できず、ただ黙って下宿の住所が書かれた
紙をみせ、ようやく目的地に辿り着きました。
 その後の学生生活では私と同様県外からの入学が大半(80人中県内出身者はわずか8人でした)であったため、日常生活に言葉でそれ程困ることはありませんでした。また地元の人の言葉にも少しずつ慣れてきました。
 その頃は貧乏学生で親からの仕送りだけでは生活できず、家庭教師以外に年末年始に寿司屋のアルバイトをしました。仕事内容は主に出前、皿洗い、レジでした。ようやく秋田弁に少し慣れた頃と思っていたのですが、はたまたその時困ってしまいました。というのは電話の注文の時です、「わだす、さどうだども、なみのにぎり、さんにんまえ、はいたつすてくれねんすべが?」理解できるのは3人前という単語だけです。私が何回も聞き直すので、ついに客が怒ってしまい電話を切られて、マスターにどやされたことを鮮明に記憶しています。それから20数年たち、今では相手の喋っていることはほとんど理解できるようになりました。これは余談ですがバイトをしていた寿司屋の勘定はかなりいい加減で、私が客の食べたものをチェックして、勘定計算したメモをマスターに見せるのですが、マスターは客が女性連れであったり、金持ち風であったりすれば、高くふっかけていました。そのくせ客には「安くしておきました」と言って、客も感謝していました。それ
以来私は寿司屋では注文する寿司の値段を必ず確認し、計算しておくくせがつきました。ちなみにその店は数年後にはなくなっていましたが。
 平成10年9月に種々の事情で和歌山の父をはるか遠方にいる私が引き取ることになりました。和歌山の片田舎の病院に人院していた父を、車と飛行機で秋田まで搬送しました。その後市内の老人保健施設やリハビリテーション施設で治療を受けました。父は徐々に体調を回復しましたが、見舞いにいく度に、言栗が通じないと愚痴っていました。私と違って70年以上関西に住んでいた生っ粋の関西人です。また入院(入苑)している人たちのほとんどは生っ粋の秋田人です。父が相手の言葉を理解できるようになるのは不可能だと思いました。ただ標準語を喋れば自分の言うことはちゃんと通じるんだから、いま試しにちょっと喋ってみなさいと父に言ったところ、「ちゃんと、こっちは標準語でゆうてんのやけどな、全然つうじれへん、あかん」と言いました。その時私が最初に交番でお話ししたあの警察官やタクシードライバー、また出前を電話注文してきた人たちにとって、当時の私の関西弁は外国語のようであったのだと、ようやく納得したのでした。
 次回は私と同期の白根病院の鈴木裕之先生にお願いしました。
 
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