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<ペンリレー>

発行日2002/05/10
土崎レディースクリニック  松浦 亨
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「あおたん」の性教育
 
 ここ数年、秋田県では産婦人科医の高校生に対する性教育が行われている。年1回各高校に赴き約1時間の講演を行うという取組みである。婦人科医が行うこともあり、どうしても性感染症と避妊の話しが中心になる傾向があるのではないかと思われる。かくいう私も昨年ある高校で講演を行う機会をもった。その準備や講演を行いながら思ったことは、これって本当に性教育なの?婦人科医に本当の性教育ってできるんだろうか?ということだった。確かに高校生の性体験率が40%になろうという時代には性感染症の予防や望まない妊娠を避ける方法は必要不可欠な知識には違いない。ただ「性教育」と命名されるとどうしても私自身が違和感を感じてしまうのだ。それはなぜか?
 それは昭和40年代後半に埼玉県下のとある県立男子高に通っていた私自身が1年間にわたって俗っぽくかつ高尚な性教育を受けるという非常に稀な経験をもっているためだ。性に真正面から取組んでくれるひとりの教師がいたのだった。「高校生の性教育」というとふと心はその時代に遡ってしまうのである。当時日本一自由で汚い学校だとなにかの記事に載ったこともある。儀式張った行事はいっさい簡略化されていた。掃除もいっさいなく明治時代からある校舎はなんともいえぬ異臭を放っていた。制服なし、早弁自由、代返可能な授業多し等々。おまけに自習時間は後の時間の教師と交渉して授業を繰り上げることができ、公然と早退することが可能であった。したがって教師もかなり個性的なひとが多く、旧制高校的気質を持つ人物が多々みられ、既製の教科書など使わない講議もあった。あおたんもそのひとりであり倫社の教師だった。本名は別にあるのだが自ら青木丹左衛門と名乗り、われわれは「あおたん」と呼んでいた。50数時間におよぶ高3の倫社の時間す
べてを使い、われわれに性教育を行ってくれた。内容は哲学、心理学、社会学、医学にわたり、なおかつ実戦的で多岐におよんでいた。すでにサボり癖がついていた私もあおたんの性教育だけはサボったことはなかったように思う。物覚えの悪い私としては細かいところは記憶の彼方に葬りさらわてしまったが、いくつか覚えているところをかいつまんで講議を回想してみようと思う。講議のメインテーマは人間の直面する三つの重大な問題、「愛」と「性」と「死」であった。始めにプラトンの「饗宴」を引用した。その中でソクラテスが語ったように、真の愛(エロス)とは肉体の愛から始めて不滅のイデア(完全で永遠の美)に至る道で、手近に誰でもわかる愛の形として性愛ほど興味深いものはなく、そこから愛を学べばいいという導入だったと思う。それから性にモラルは必要か?という命題に入り、プラトンの「理想国」やハクスリーの「すばらしい新世界」を題材とした。次に性は人間を支配するものか?という項目に入った。そこでは性欲や勃起、射精、月経、排卵、オルガスム、妊娠のメカニズムやマスターベーション、性感染症や避妊の実際についても言及した。さらには実際の性愛のテクニック的な面の講議も微に入り細に入りあり、われわれは興味深々と聴きいったものだ。性の社会学ではなぜ性は罪悪視されるのか、なぜ女性は性的に解放されにくいのか等の講議もあった。後半では性の心理学の講議があり、これがまた非常に面白かった。精神科医フロイトの性心理学を中心とした内容だった。フロイトは人間を動かす根本的欲望を性欲とみなし、人間の成長過程でいろいろな形となって現われるというもので性欲の発達段階を興味深く解いた。性の多様性についてもサディズムとマゾヒズム、同性愛などの講議があった。詳細は紙面の都合上書けないが、10代の少年にとっては衝撃的かつ興味がつきない内容であった。
 私が受けた性教育と比べると私が行った性教育は本当に性教育と呼べる代物なのかとつい自問自答してしまう。避妊教育や性感染症学としては婦人科医は介入できるのかも知れないが、「性」の教育としては、はたしてこの方向でいいのだろうか。10代の少年にとって時代は変わっても、「性」は非常に現実的世俗的でありながらなおかつもっと深遠なテーマなのではないだろうかと、高校時代に本格的な性教育を受けたという非常に稀な経験を持つ婦人科医としてはつい考えてしまうのである。
 
 ペンリレー <「あおたん」の性教育> から