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<ペンリレー>

発行日2020/06/10
秋田赤十字病院  髙橋 裕哉
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志村けんを偲んで
 
  コロナで全世界が震撼しています。今まで経験したことのないニュースが日常的に入ってきます。このような状況でとてもペンリレーなど行っている場合ではないと率直に思います。秋田県でも医療崩壊が現実味を帯びる中、軽々しく最近はまっている趣味などかけるはずもありません。ペンリレーを続けるかどうかは編集部の方にお任せするとして、今回は大変ショッキングなニュースとなった故人志村けんさんについて思いを綴ることにします。
 彼、あるいはドリフターズのファンは大勢いると思いますが、僕には彼の死を偲ぶに値する理由があります。僕は東村山市出身で、秋田に来るまで、志村けんと同じ景色を見て、同じ空気を吸って育ってきたのです。

  僕にとっては居るのが当たり前で、熱烈に応援していたりしたわけではありません。ただ純粋に誇らしい気持ちがありました。好きなTVなどなかなか見られない小さい年齢の時、ドリフターズだけは許されていて、週末の大きな楽しみだったことを思い出せます。死去されてお兄様が遺骨の入った箱を持って取材に応じている姿の映像を見て、最初は感情がついていきませんでした。そして何日かたって、志村けんというコメディアンを僕はかなり好きだったということを認識するようになりました。
 東京出身の方なら、わかってもらえる感覚と思いますが、東村山市出身者は果たして「東京出身です」と言っていいのか問題が存在するのです。地名的にも田舎っぽく、実際僕が小さいときはまあまあの田舎だったと思います。東京出身者のヒエラルキーでも大分底辺の方だと思います。しかし、しかしです。志村けんが居ること、更に東村山音頭が全国区で有名になっていることから、僕は「東村山出身です」ということにほとんど抵抗なく過ごしました。みんな知ってるし、隣の東大和市よりよっぽどいいと感じてました。志村けんは東村山の名誉市民であり、紛れもなく東村山の誇りだったのです。

  最近の若い人には彼、あるいはドリフターズの笑いは「古い」とか「今だと通用しない」とか「セクハラが多い」とか否定的な意見もあると知りました。そうなのかもしれません。ただダウンタウンもウッチャンナンチャンもまだ世に出ておらず、バラエティ番組という概念も薄かったあの当時、確実に一時代を築いたのは事実です。教育上いいかどうかは別にしても、「子どもが見てもわかりやすい」笑いだったと思います。例えば言語を使わなくても、見たまんまに大半は笑える、そんなコントが多かったと思います。これはたまたまだったのでしょうか?
 「幼稚な」「低レベルな」笑いと評価されることもあるかもしれません。しかし志村けんは万人を笑わせようと努め続けましたが、目線は常に子どもにあわせ、「子どもに笑顔になってほしい」という気持ちが強かったのではないでしょうか。若手芸人が昔「娘の手術でお金が必要で・・・」と相談した際には1000万を「出世払いで返してもらえればいいから」と差し出し、後日その話が嘘とわかった際には「何だ、娘さん無事なのか、よかった。お金?別にどうでもいいよ」と神対応したという逸話もあります。恐らく志村けんは人一倍子ども好きだったのだと思います。「子どもを笑顔に」という軸を持ってコントを改めて見てみて下さい。彼の人柄が垣間見える気がします。

  亡くなった後、高木ブーさんが「志村は死なないの、ずっと生きている」と言っています。大事なこと、特に我々東村山出身者がするべきこと、が悲しむことだけではないな、と感じます。
 近いうちに小学校2年になった息子と、ドリフターズのコントを一緒に見ようと思います。きっと大はしゃぎで見ると思います。下品なものまねもするかもしれません。それを叱らず僕も一緒になってまねしようと思います。僕も、僕の子どもにも東村山の血が流れているわけですし。「アイーン」「バカ殿」「変なおじさん」「ヒゲダンス」「だいじょうぶだぁ」・・・みんな僕の人生を豊かにしてくれた言葉です。そして日本を元気にしてくれた言葉です。僕は東村山出身で良かったと思います。子どもにも伝えていきます。志村けんさん、本当にありがとうございました。

  次回ですが、研修医時代から大変お世話になった稲庭クリニック 菅原純哉先生にお願いしたいと思います。宜しくお願いします。
 
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