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<ペンリレー>

発行日2019/01/10
あきた東内科クリニック  成田 琢磨
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私の“糖尿病医遍歴”
 
  新津秀孝先生からバトンをいただき、投稿させていただきます。昨年の12月1日に広面の三吉神社脇に糖尿病を専門とする内科を開業させていただきました。あっという間の1年でしたが、大学時代と全く異なる環境に身を置き、たくさんの先生方のお世話になりながら、なんとか過ごして参りました。昨年の今頃は、“糖尿病専門と銘打って患者さん来るんだろうか?”、“必要十分の患者さんへの対応ができるんだろうか?”、“スタッフを食べさせていけるんだろうか?”、などなど・・・。今回は私が糖尿病医を志した経過をご紹介します。
  思い起こせば、高校生の時、当時はやっていた柳田邦男さんが著した“ガン回廊の朝”を読んで、消化管レントゲン検査、内視鏡で早期がんを見つけたりする内容に興味を持ったことが始まりでしょうか。昭和62年自治医科大学を卒業後、いずれへき地に内科医として赴くことになるから、消化器だったらある程度1人でいろんなことができ良いだろうと思い(手先が生来不器用、また絵が下手なので外科はやめておいた方がいいなと思っていたのもあり)、また、亡き父がパーキンソン病だったこともあり(今ならiPS細胞の治療もあるな~)、消化器内科、神経内科、糖尿病を専門とする、故正宗研教授の主宰する秋田大学第一内科へ入局させていただきました。最初に回ったのが糖尿病グループで当時、猪股茂樹先生、大澤佳之先生らがオーベンで、最初に受け持ったのが、腎症ネフローゼのかた、あっという間に透析に入っていった状況で、もっと何とかならないのかという感がありました。そののち、消化器内科、神経内科と回り、関連病院での内科研修を経て、3年目から8年目までを阿仁町立病院の内科医として過ごさせていただきました。どこへ行っても糖尿病患者はおり、合併症が出来上がった患者さんもそれなりにおります。奇しくも阿仁町立病院に、猪股先生が出張で来られており、地域の糖尿病患者さんの現状をまとめて学会で発表してはと勧められたのが直接のきっかけで、糖尿病を専門とする決意ができました。
  1年自治医大大宮医療センターで研修の後、平成8年、伊藤正毅教授が開設し、村田雅彦先生が医局長の秋田大学老年科(現、内分泌・代謝・老年内科学講座)に入局させていただきました。ちょうどそのころから、大規模臨床研究の結果が続々と発表になり、かつ糖尿病の治療薬が飛躍的に増える時期した。降圧療法、脂質治療との併用で、糖尿病患者の合併症の予後が明らかに変わってくるのが実感される、とてもいい時期に専門医研修ができました。腎症の臨床研究にどっぷりつかっていたら、伊藤教授が退官され、京都から現教授の山田祐一郎先生が赴任されました。インクレチンの世界的権威の一人で、私もその中、いくつかの臨床論文の執筆に携わるという名誉に預かることができました。
  どんどん糖尿病の薬が増える中で、でも治療をしない、ないし治療中断の末、やはり合併症が進んで大学や、基幹病院を受診する方がいまだにたくさんいます。2型糖尿病であれば症状がほとんどないまま、合併症が進んでしまいます。初期であれば、食事、運動療法をしっかりやれば、コントロールできます。気軽に受診できて、基本の食事療法がしっかり指導できる施設が必要なのはわかっていました。山田教授と相談し、私の残りの医師生活も考え、思い切って地域に出ることにしました。
  とにかく、療養指導にたけたスタッフに来ていただくのが第一でした。幸い管理栄養士さん3名、看護師2名が集まり、全員日本糖尿病療養指導士ないし秋田県糖尿病療養指導士の資格を持っております。またフットケアの経験が豊富な看護師さんもおります。加えて臨床検査技師さん2人、事務方3人のスタッフでスタートしました。
  糖尿病患者さんが来たら、検査データが出るまでに栄養指導やフットケアをできる限りやり、診察に結び付ける形でやっています。難渋している糖尿病患者さんは、大学、市立病院、赤十字病院、中通病院、厚生医療センターなど専門医のいる施設と連携して、教育入院をさせていただいています。
  何とか一年が過ぎましたが、これからも多方面の先生方のお世話になります。よろしくお願いします。次回は私より一歩先に糖尿病専門クリニックを開業された粟﨑博先生にお願いしてあります。
 
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