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<ペンリレー>

発行日2017/11/10
秋田県立医療療育センター  澤石由記夫
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特別賞
 
  左利きだった私は、物心ついた頃から、いつも怒られていた。今でこそ左利きは矯正しないように指導されるが、私が子どもの頃は違っていた。左利きはみっともないものなので、子どものうちに右利きへ変えてあげることが本人のためであり、早くから厳しくしつけるのが正しいと信じられていた。しつけ=怒ることと考えられていた時代なので、記憶をたどれる3~4歳頃から、私はいつも怒られていた。子どもは怒られてばかりいると、不安感や緊張感が強くなってしまう。そのため、落ち着きがなくなり、間違いも多くなる。すると、それでまた怒られる。悪循環を繰り返すなか、徐々に情緒不安定となり、ついには、ちょっとしたストレスで狂ったように泣き叫ぶようになってしまった。小学校に入る頃には、現在使用されている注意欠陥多動障害(ADHD)の診断項目に全て当てはまる、じっとしていられない(多動)、そそっかしい(不注意)、興奮しやすい(衝動性)大変な子どもになっていた。
  これまでの私の人生の中で最大の幸運は何かと訊かれたら、「小学校に入学しM先生に出会えたこと」と私は迷いなく答える。
  まだ二十代の若々しいM先生が、「教師になって4年間、ずっと上級生を担任していたので、低学年を担任するのはみなさんが初めてです。先生も一緒に勉強して行きたいと思います。」と、教室で私たちに初めて語り掛けた言葉を今も覚えている。M先生はいつも優しかった。私が不注意で間違ったり失敗したりしても、優しく励ましてくれ、怒ることはなかった。家に帰ると怒られてばかりでも、学校に行くと怒られないばかりか、M先生が優しく接してくれるので、毎日学校へ行くのが楽しくてしょうがなかった。そして、優しいM先生の前では、自然に自分も良い子になっていった。
  そんななか、私はM先生を驚かせる事件を起こしてしまった。実は3歳の時、私は入院して毎日痛い注射をされた経験があり、極端な注射恐怖症になっていた。小学校で初めての予防接種があった日のこと、私は保健室で予防接種を受ける列に並んでいた。自分の順番が近づくにつれ、徐々に泣きべそをかきだした。そして、ついに目の前に注射器を持ったお医者さんが現れた時だった。突然、狂ったように、ギャーッと大声を出し、両腕を扇風機の様にグルグル回し暴れだした。その後のことは良く覚えていないが、結局注射をしないまま保健室を解放され教室に帰った。数か月後、また予防接種の日がやってきた。前回の私の騒動を聞き付けた校長先生が、保健室で私を待ち受けていた。不安と恐怖に顔を引きつらせながら、私は注射を受ける列に並んだ。順番が近づいてきて、泣きべそをかきだした私のかたわらに、校長先生が立っていた。絶体絶命のなか、自分の順番になってもお医者さんに近づこうとしない私の背中に、校長先生が手を触れた瞬間、私の体にスイッチが入り、突然叫んで暴れだした。校長先生は私を何とか押さえ付けようとした。しかし、私は狂ったように、校長先生に向かって両手をグルグル回して殴り掛かった。校長先生は「分かった、分かった」と言ってその場から逃げ去った。後でM先生は校長室に呼ばれた。校長先生は「あの子、ちょっと頭おがしべー」と言った(後日、PTAで母が聞かされた)。M先生は「いつもは良い子なのですが」と答えてくれた。そんな私も、小学校2年の途中から、暴れないで注射を受けることができるようになった。なぜ暴れなくなったのか思い出せないが、何か力の湧く言葉をM先生が与えてくれた様に思う。
  小学校2年生のある日、M先生が珍しくみんなに説教をした。いつもは、数分ほどで終わるのだが、その日はなかなか終わらなかった。いじめや差別は絶対にしてはいけないと、M先生は力説していた。説教が始まって間もなく、私はオシッコをしたくなった。ADHDの合併症状なのか、私はおしっこが近かった。授業中に、手を挙げて「先生、おトイレに行ってよいですか?」と許可を求め、教室を出ることがしばしばあった。しかし、その時は神妙な雰囲気の中でみんなM先生の説教を聴いていた。どうしても、オシッコと言い出せぬまま、説教が終わるまでじーっと我慢した。しかし、M先生の説教は延々と続き終わらなかった。そして、ついに私はオシッコを漏らしてしまった。「先生、オシッコ出てしまいました。」と泣きべそをかきながら言った。特別な説教をしている最中にオシッコを漏らしたのだから、当然先生に叱られ、みんなに笑われると思い、泣き叫びたい気持ちだった。しかし、M先生は意外な言葉を口にした。「ごめんなさい。先生が悪かった。」、意味が分からず、きょとんとしている私に対し、さらにこう続けた。「先生が長々と説教してたので、トイレに行きたいって言えなかったんでしょう。ごめんなさいね。」と言って、私に頭を下げた。さっきまで張り裂けそうな思いだった私は、M先生の優しい言葉に救われた。
  小学校2年の夏休みに、朝読みの課題がみんなに出された。夏休み中の日付が記された朝読みカードを渡された。ちゃんとできたら〇、できなかったら×を毎日付ける様にとのことだった。夏休みが終わって、朝読みカードを先生に提出する時がきた。周りの人たちのカードを見たら、ほとんど〇ばかりだった。私の朝読みカードだけが〇と×とが半々くらいだった。私のカードを覗き見た他の子は「えーっ、×ばっかり」と言った。私は下を向きながら朝読みカードをM先生に提出した。数日後、夏休みの朝読みカードの表彰式を行うとM先生が言った。私は、自分が一番×が多いことを知っていたので、表彰式をやると聞いてとても嫌な思いになった。全部〇だった人の名前が読み上げられ、M先生の手作りの賞状がひとりひとりに渡された。表彰式が終わった後、M先生が言った。「それから、特別賞があります。由記夫さんです。」私はドキンとした。きっと最下位賞をもらうんだと思った。M先生は言った、「由記夫さんは×が一番多かったです。半分くらい×です。でも、先生はとても嬉しく思いました。他の人は一つか二つしか×を付けていません。みなさん本当に正直に〇を付けましたか? 先生はもっと×がいっぱいあったんじゃないかなと思います。朝読みをすることは大切ですが、うそをつかないことはもっと大切です。由記夫さんは正直に×を付けてくれました。先生はそのことがとても嬉しいです。なので、由記夫さんには正直賞をあげます。」 私は赤面した。正直なことをM先生が褒めてくれて、嬉しくて赤面したのではなかった。「先生、ごめんなさい」との思いで、申し訳ない気持ちで顔を赤くしたのだった。実は、夏休み中に、私は朝読みを2~3回しかしていなかった。そのことを正直に書くことができず、自分なりに考えて、半分くらい〇なら許してもらえるのではと思い、うその〇をたくさん付けていたのだった。そんなうそつきの自分のことを信じてくれ、評価してくれるM先生の思いを知り、私は本当に申し訳ない気持ちで一杯になった。そして、M先生を裏切るようなことはもう絶対しないぞ、うそは絶対つかないぞと心に誓った。
  M先生は2年間私たちを担任した後、別の小学校に転任していった。その後、成人式の時だったろうか、M先生と久しぶりに再会する機会があった。それからは、毎年M先生と年賀状をやり取りするようになった。今から5年前の初冬のこと、M先生から一枚の葉書が届いた。「喪中のため新年の挨拶を遠慮します」と書かれていた。差出人はM先生ではなく、M先生のご主人だった。急いで葉書の文面を読み返した私は、その場から動けなくなった。M先生との思い出の場面が頭の中をグルグル巡った。そして、あの朝読みカードはうそでしたと、いつか告白しなければと思っていたのに、もう絶対に言えなくなってしまったことを悔いた。
  私にできるM先生への恩返しは、いつの時かM先生と再会した際に、「先生から頂いた特別賞は、私の人生に無駄ではありませんでした」と、胸を張って言える様に、これからも愚直な毎日を過ごして行くことだと思う。

  次回は同僚の小児科医、豊野美幸先生にお願いします。
 
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