能登半島は日本海のほぼ中央部に向けて長く突出しており、その優位な地勢的条件からかつては古代以来の環日本海交流の表舞台でした。 私の郷里、七尾(ななお)は能登半島の中央部に位置し、半島の歴史風土の形成において絶えずその中核をなしてきました。 海を隔てて交流を結んだのは朝鮮半島とその背後の中国大陸であり、積極的な交流が醸した豊かな生活文化と深い信仰儀礼は中世の畠山文化(畠山氏は足利一族で、足利将軍を補佐した3管領の一人)を生み出す豊饒な母体となりました。 能登国守護・畠山氏の時代は16世紀前半に全盛期を迎えました。 標高300mの尾根に七尾城(日本五大山城の一つに数えられるほどの強固な城)が築城され山麓に城下町“千門万戸”が一里余りも連なり、山頂に聳える七尾城の威容は“天宮”とまで称されました。戦乱の時代に各地を放浪していた公家や蓮歌師を積極的に保護し、また、商工業の発展を計り、当時の七尾は北陸の小京都とまで言われたようです(今昔)。 しかし、天正4年(1576年)、能登国に侵攻した上杉謙信に包囲され、二年に渡り持ち堪えましたが、陣内の疫病(疫痢?)大流行と重臣の造反により開城しました。 当時、日本海側の物流は越前敦賀、若狭小浜が中心でした。加賀安宅湊、七尾の所口湊、越中東放生津、越後直江津、柏崎、出羽酒田、出羽秋田、津軽十三湊などが有力な湊町であり、それらの湊を経由して若狭湾に至り、琵琶湖を経由して京で商いを行うことが主流でした。 戦国時代最強と言われた謙信は単なる超戦闘型武将ではなく、卓越した経済感覚を持っていたと言われています。当時の船舶水準からいくと、謙信の本拠地である越後直江津から越前敦賀まで中継なしで物資を送ることは不可能で、それ故、越後の経済政策を考えたとき、日本海海上交通の要所である能登七尾を抑えることは必要不可欠だったのです。 謙信が七尾城に入城した夜、陣中にて詠んだ漢詩“九月十三夜陣中作”が有名です。 霜満軍営秋気清(霜は軍営に満ちて秋気清し) 数行過雁月三更(数行の過雁月三更) 越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景) 遮莫家郷憶遠征(さもあらばあれ家郷の遠征を憶ふ) 越後の龍と言われた謙信にとっても、大変な戦であったことがひしひしと伝わってきます。
七尾に近世都市形成の骨格基盤を誕生させたのは、天正9年(1581年)に織田信長より能登23万石を拝領して入国した戦国武将・前田利家です。 利家は、守護畠山氏の栄華を象徴する七尾城とその山麓に整備された中世城下町を排して陸海の交通終結地である海に面した丘陵に小丸山城を築き、城下町を整備しました。町並みは碁盤の目で、天然の堀の役を果たした川を挟んで職人街と町人街に分けられ、職人街には大工町、鍛冶町、鉄砲町、桧物町、塗師町、作事町など、商人街には味噌屋町、豆腐町、米町、魚町などの町名が付けられ、今もその名は残っています。 利家は小丸山城入城の2年後(天正11年)、柴田勝家に与して賤ケ岳で羽柴秀吉と戦って敗れ、降伏しましたが、その後は秀吉に協力し、同年、金沢城に移り百万石の大大名へと歩を進めました。小丸山城には利家の兄、保勝を城代として置き、城下町としての整備はその後も着々と行われました。 しかし、元和2年(1616年)、江戸幕府より一国一城令が出され、小丸山城は廃城となりました。その後は町奉行管轄下で、城下町骨格を都市基盤としつつも、一般庶民による主体的な商業活動によって都市生活全般が支えられた宿場町として完成していきました。 ふと気がついてみると、何時の間にやら、故郷を出てから半世紀もの時が流れていますが、毎年、五月の連休がくると必ず思い出す懐かしい祭りがあります。 それは、千年以上の歴史を持つ、天下泰平五穀豊穣を祈る大地主神社(通称:山王神社)の春の例大祭“青柏祭(せいはくさい)”です。 祭りの起源は、天元4年(981年)、平安時代、歌人(梨壺の七人の一人)として有名な能登国守・源順(みなもとのしたごう)が定めたのが始まりで、巨大な曳山が山王神社に奉納される “曳山(ひきやま)行事(国指定重要無形民俗文化財)”は500年以上も前、守護大名・能登畠山氏の時代から始まったと言われており、昨年12月、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。 “能登は優しや土までも” 能登の素朴な人情、風土の中に生まれた素朴な巨大な曳山! 高さ12m(江戸時代は18m)、重さ20tの日本一大きい曳山3台が狭い町中を引き回され、山王神社に奉納されます。 曳山は船の形(北前船を模したと言われている)をしており、色とりどりの幕で飾られ、上段には歌舞伎の名場面を表した大きな人形が据えられ、町の子供たちを乗せています。 音曲は山車の幕の中で演奏され、山車の前に若衆が立って、着物姿で手に“ザイ”と呼ばれる飾り付の棒と扇子を持って木遣り音頭を歌います; めでためでたの若松さまよ 枝も栄える葉も茂る ここの館はめでたい館 鶴が御紋に巣をかける 鶴は千年亀は万年 浦島太郎は八千年 ヨーオイトーナー と言ったもので、辻辻で歌う台詞となります。 中には、“ソーリャー、破れふんどし将棋の駒よ、角かと思ったら金が出た ヨーオイトーナー”と言ったものもあります。 狭い路地を曳行される曳山を見ずして青柏祭を語るなかれ・・・です。 中でも、“辻廻し(つじまわし)”と呼ばれる方向転換は見応えがあります。曳山の巨大な車(直径2m)は木で作られており8mの大梃子(おおてこ)に若衆連中が鈴なりになって、梃子の原理で曳山の前輪を浮かせ、回転用の地車を入れて辻を回ります。 地元では曳山の事を “でか山”と呼んでいますが、人の背丈を基準に写真を見て頂くと“でか山”のイメージが湧いてくるのではないでしょうか。 小丸山城址公園に登ると長谷川等伯(1539~1610年)の記念碑があります。 等伯は畠山氏の全盛期、七尾城の城下町で生まれ、優れた絵仏師であった祖父、父から絵を学び、30歳の時に京都へ出て研鑽に励み、やがて桃山画壇に颯爽と登場して狩野派と双璧を成した郷土が誇る水墨画の大家で、代表作には、日本の水墨画の最高傑作とされる“松林図屏風”(東京国立博物館蔵)や桃山文化の象徴として名高い“楓図壁貼”(京都・智積院蔵)があります。 記念碑を背にして眼下に広がる七尾湾を眺めると、懐に大きな能登島を抱きかかえたような内海で、正に“天然の良港”であり、また“天然の生け簀”と呼ばれるほど多種多様な魚介類が獲れ、市場には四季を通じて新鮮な魚介が並べられています。 そして、近く(市内)には、昨年までの36年間、プロが選ぶ“日本のホテル・旅館百選”日本一を続けた加賀屋旅館を代表とする和倉温泉もあり、是非、一度は訪れて頂きたい所です。
ペンリレーについて思うこと: いつも会員の皆様が書かれたペンリレーを楽しく読ませてもらっていました。 あくまでも愛読者のつもりでしたが、突如、それこそ降って湧いたように執筆の機会が巡ってきました。それも息子から・・・最初は軽くあしらって相手にしていなかったのですが、そのうち、本当に困っていることに気づかされ、やむを得ず甘い父親を演ずることにしました。物を書くことは決して得手ではありませんが、気楽に何かを、であれば何とかなるだろうと思いました。だが、待てよ・・・自分の原稿は何とかするとしても、書き始める前に次のリレー相手を先ず見つけておかなくては息子の二の舞になるぞ、と思い、早いうちに機会をとらえて気楽に声をかけ始めました。 ところが、現実はどうだ!!! これはと思う何人か(も)に声をかけましたが、皆様には夫々の事情があり、固辞され、面食らい、路頭に迷う思いでした。 幸い、これが最後と思い、秋田市小児科医会会長の高橋郁夫先生にお願いしたところ、生来優しい先生は状況を察して快く引き受けてくれました(押し付け御免!)。これまでに執筆された皆様の中にも、私と同じように苦労(?)された方がいらっしゃったのではないかと推察しております。 そこで、今回は編集委員会に提案をしたいと思います。 従来の“個人”リレー方式だけでは限界があるように思いますので、“班”リレー方式を併用(単独も可)しては如何でしょう。 個人が難しい時は、あらかじめ決めておいた班にお願いする。年代や専門分野の偏りもなく、班会議の楽しい話題(議題)にもなるのではないでしょうか。
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