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<ペンリレー>

発行日2016/12/10
清水整形外科医院  清水 東吾
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Seeing from what viewpoint
 
清水英杜(3歳)の陳述
  おかあしゃあああん、ごめんしゃあああい。
清水一理(5歳)の記憶
  そ、そのとき、オレまだ3さいにもなってなかったし。あんまりおぼえてないし。わすれたし。で、でも、いまはエイトも3さいになったから、ようちえんにいっしょに、オレとバスにのっていってる。エイトなかないよ。すごいし。で、でも、ようちえんで、こまったことがあるとエイトはすぐに『イッチリ、イッチリ、いっちゃ~ん』ってオレをさがしにくる。すこしめんどうくさいし。で、でも、うちでおとうさんとおかあさんから、『イチリ、エイトのことたのんだよ』っていつもいわれてるから、しょうがないし。
 おかあさんの、おなかのなかに、エイトがいたときは、おかあさんのおなか、とってもおおきくて、で、でも、おかあさんはオレとたくさんあそんでくれたし、南のしまにも、つれてってくれた。で、でも、その南のしまで、おかあさん、ぐ、ぐあいわるくなっちゃったんだ。た、たしか。
清水都亜(8歳)の自信
  ウチがいつも弟たちの面倒をみてる。だから弟2人ともウチに一番なついてるよ。お兄ちゃんやお姉ちゃんよりもウチにね、へへへ。『トリアのバカうんち!』っていっちゃんは時々かんしゃく起こして爆発するけど、本当はウチのこと大好きなの知ってるんだ。ま、ウチが弟たちの教育係りみたいな感じ。いっちゃんを幼稚園に連れて行ったのもウチだしね、へへへ。だから、英杜がまだお母さんのおなかの中にいた時、お母さんおなか痛くなって沖縄で動けなくなって、それでウチといっちゃんの2人が、夏休みの間ジジとババの家に預けられても、いっちゃん少しも泣かなかった。ま、ウチは少しだけお母さんが心配だったけどジジとババがいたから泣いたりしなかったよ。逆にいっちゃんと一緒だったから平気だったのかも。でも、とってもとっても長いなが~い夏休みになった。ま、ウチは退屈が一番嫌いだからよかったのかもね、へへへ。
清水七瑠(10歳)の視野
  お母さんが沖縄の病院に入院したのはお母さんの誕生日の前日でした。もちろん誰も五人目の出産でこんなことになるなんて思っていませんでした。私も含めてこれまで四人全員が安産だったと聞いていたんです。沖縄のホテルで、お父さんがお母さんに内緒で用意したサプライズのバースデイケーキを、残された5人でお母さん不在のまま、しんみりと食べたのを覚えています。一理と都亜は状況が理解できていないようで、かえって助かりました。一番落ち込んでいたのはやっぱりお父さんでした。いつもお酒を飲むと陽気なお父さんもその時ばかりは魂が抜けたように呆然としていたように思います。ガレンお兄ちゃんと私はそんなお父さんを見るのが初めてでしたので、やはり何かよくないことが迫りつつあるのだということが漠然とでしたが、同時に鋭くピリピリと肌に感じました。お兄ちゃんが『おい、ナイル、泣くなよ。お前が泣くとお父さんも泣くぞ』と囁くので私は生クリームで書かれた「お母さんお誕生日おめでとう」のバースデイプレートを見つめてお父さんから目をそらしました。
清水雅蓮(12歳)の当惑
  結局母はうるま市の沖縄県立中部病院に入院することになった。那覇以北の中核病院だった。期間未定、絶対安静、子供の面会は許されず、母の容態と同時におなかの中の英杜の状態も知るすべは僕らにはなく、それが尚更僕らの不安を煽った。当初から明後日には秋田に帰る予定だったので、父は『一週間したら一度必ず沖縄に戻って来るから』と泣き出しそうな母に約束し、母を残して僕ら4人を連れて秋田に戻った。秋田に戻ってからの父の行動は迅速だった。一週間後の航空券とホテルの手配をし、まだ手のかかる一理と都亜を羽後町の母の実家に頼んで預け、お盆休み明けの診療に戻った。仕事をしながらも、父は三度の食事と洗濯、掃除とを出来る限りこなし僕と七瑠に一抹の寂しさと不自由をも感じさせまいと努めているのが痛いぐらい分かって、逆に息が詰まりそうだった。とりつくろった笑顔で家事と仕事を両立させる父は今にも壊れそうで見るに堪えなかったのだ。苦しい1週間をやり過ごし、父と僕と七瑠の3人はきっと3人とも、今の秋田から逆に逃げるように母のいる沖縄へ向かう飛行機に乗り込んでいたと思う。
清水久美子(40歳)の憔悴
  最初に私を救急で診察してくれたのはまだ30代前半らしい中堅といった女医さんでした。耳に小さなピアスをしてオシャレな感じの先生でしたが、とても落ち着いて親身な口調でゆっくりと話すので、私はその説明をとても穏やかな気持ちで聞くことができました。『切迫早産です。子宮口がもう2cm開き始めてます。まだ30週ですので子宮収縮抑制剤の持続点滴をして36週ぐらいまでは妊娠期間の延長をはかります。ベッド上安静です。多分、沖縄で出産されることになるでしょう』事態を飲み込んで理解するまで時間がかかりました。最後の、沖縄で出産、その言葉に愕然として、まさに途方にくれました。何をまずどうしたらいいのかさっぱり分かりませんでしたし、そもそも私に今できることは何もなく、ただ点滴をしてもらい、じっと待つしかありませんでした。主人と子供達が名護市のイオンで生活に必要は日用品を買い揃えてくれました。スーツケースをコロコロと引いて入院する自分の姿が何とも悔しくも情けなくもあり、私は主人と子供達に、そして胎内のまだ見ぬ英杜に何度も何度も『ごめんね。ごめんね』と謝りました。『大丈夫だよ。お母さん。こっちは何とでもなるから。なあ、七瑠』『うん、お母さん、私たちは心配ないよ』雅蓮と七瑠の気丈な言葉を聞いて、ついに堰を切ったようにポロポロと流れだす涙を、私は止めることができませんでした。
清水東吾(47歳)の戦慄
  足音を立てず忍び寄る死の気配を感じて、初めて人は恐れおののく。そして死をあらがうことで改めて生にすがっている自分に気付く。死はいつでも僕らの生の影に潜んでいるのに、僕らは平素それを顧みないし、あえて認めようともしない。あまつさえ、生は永遠だとすら思い上がる。だが、何か些細なきっかけさえあれば、やすやすと死は僕らの目の前に姿を表す。何か複雑な事情が絡んでようやく死は訪れるのではなく、とても容易に、かつ突然にやってくる。父の時も、兄の時もそうだった。その予告のない容易さに震撼を覚えたし、それ以上に、人は誰でも必ず死ぬが、生まれせずして死ぬということさえもありえるのだと痛切に思い知らされた。
  再び僕らが沖縄に戻る頃には久美子の容態は思いもよらぬほど好転していた。点滴から内服に切り替わり、病棟内歩行も許可されていた。今回病状を説明してくれたのは40代と思われる、やはりピアスをしたベテランの女医で、『容態の安定している今なら秋田に帰れないこともありません。いかがしましょう?』というので、現実にはまだ何も解決していないのに僕は鉄棒で着地を決めた内村航平よりずっと派手にエアーガッツポーズを決め、『では秋田に帰りたいと思います』と神妙に答えた。が、内心『秋田に戻れればなんとでもなるわい。ふふふっ』とヒラリーの鼻をへし折ったトランプさながらの不敵な笑みを隠していた。それでも秋田までの帰路は厳戒態勢で、航空会社に妻の病状を逐一説明し、まんがいちに備えてバックアップを整えてもらい、空港内は全てカートか車椅子で久美子を慎重に運び、スーツケースは雅蓮と七瑠が喜んで押してくれた。那覇から秋田までのビジネスクラスを確保し、印籠をかざした副将軍御一行の如き素早さで一気に帰ってきた。自宅でも様々な人々による完全看護で安静を保つことができ、久美子は平成25年9月26日妊娠37週で、3211gの英杜を無事出産した。
 
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