トップ会長挨拶医師会事業計画活動内容医師会報地域包括ケア介護保険について月間行事予定医療を考える集い学校保健関連

<ペンリレー>

発行日2015/06/10
きびら内科クリニック  鬼平 聡
リストに戻る
天草への旅
 
  天草五島を訪れたのは40年以上も前のことになる。中学1年の夏、家族旅行で九州を一回りした。川崎から日向までフェリーで渡り、大分~宮崎~鹿児島、そして小さなフェリーを乗り継いで、天草の先端にある牛深へと渡った記憶がある。当時、海なし県の栃木に住んでいた中学生にとって、空の青さやエメラルドグリーンと称された透明な青い海に心が躍った。今は天草五橋が完成し、熊本市側から容易に天草列島の先端まで足をのばすことができる。当時の豊かな自然の思い出をたぐるように、また新たな発見を求めて天草へ向かったのは昨年5月連休のことである。
  熊本に宿をとり、レンタカーを借り出して天草へと出発した。連休中の観光地ということもあり、初めは車の混雑に辟易したが、天草五島の最も熊本よりに位置する大矢野島へ渡ったあたりから、車の流れもよくなった。大矢野島から上天草市内の上島の間には、天草五橋の二号橋~五号橋が架かっているが、これらの橋はいくつもの小島をつないでいる。その点在する島並みが、まるで松島のようであり、実際に天草松島と呼称されるゆえんである。本家の松島は、茶色の湾内の水に興ざめする向きもあるが、こちらはエメラルドグリーンの海に松島が浮いているような風景である。点在する島の北側には島原湾があり、その先には雲仙普賢岳がそびえている。また南側には八代湾が広がり、こちらは夏の不知火で有名である。
  上島からまた小さな海峡を越え、天草列島の中で最大の島である下島、さらにその最南端にある牛深をめざした。
  自分の思い出の中では随分小さな港町であった気がしていたが、実際は大きく違っていた。人口も一万余を数え、また昭和初期にはイワシの漁獲量が日本一であったとのことで、活気にあふれた港町であった。牛深ハイヤ橋と名付けられた見事なアーチ状の巨大な橋が港や町を俯瞰するように建てられており、その設計も関西空港の設計を手掛けたイタリアのレンゾ・ピアノという有名な設計家の手によるという。また、このハイヤというのはハイヤ節という漁師歌からとったもので、ソーラン節のハイヤ版というところか。
  牛深を後にして次に目指したのは天草市 崎津の教会である。キリシタン弾圧が始まった1600年代初頭から、明治政府による信教の自由が認められるようになった1890年頃までの約300年の間、その宗教を捨てることなく子々孫々まで受け継いできた人々が、再び得た信教の自由の元、建てた教会が散在している。静かな港町の中にひっそりとたたずむ崎津教会の姿は美しく、神々しい。
  天草にはキリシタンの資料館が多いが、その展示物にも驚かされた。キリスト教を300年近くも引き継いできたのは、ポルトガル宣教師たちが「天にましますわれらの父よ、・・・ アーメン」といった、日本用に訳された祈りの言葉があってはじめて子孫に伝えてきたものと思ってきたが、さにあらず。ポルトガル語やラテン語の音読をまねたオラショという祈りを、口写しで伝えてきたため、時代とともに変化し、まるで呪文のようになってしまった。
「ぐるりよおざ、きりやでんず、みじりめんで、あめまりやと、ぐるりよおざの」
のような祈りだけをよりどころに、300年を耐え抜いてきたその信心に驚かされた。
  天草・島原の乱では一揆軍37000人が全滅し、人口が25000人から1万人程度に激減、江戸時代の天草は非常に荒廃したという。なお江戸時代には踏絵を含め、何度かキリシタン探索が行われている。1805年には5205人の潜伏キリシタンが発覚する事件(天草崩れ)が起こったが、幕府もこれらを処刑するには決断しかね、心得違いと諭し、寺預けにするという穏便な対応をとったという。
  美しい風景とそのギャップをもった悲劇的歴史を持つ天草の余韻に浸りながら、熊本への帰途についた。途中、御輿来(おこしき)海岸で落日の時間をむかえた。ここは天草湾に面した干潟であるが、湾内の静かな波や柔らかい砂の影響で、干潮時には弧状の波紋がたくさん浮かび上がってくる。その波紋の間に水をたたえて、まるで幾重にも作られた棚田のようになっている。それらが赤から紫へ彩りを変える夕日に照らされ、輝いて見えた。またその天草湾の向こう側には、その夕日を背光として浮かび上がる雲仙普賢岳を望むことができ、まさしく絶景であった。のちに知ったが、ここは「日本の渚百選」「日本の夕日百選」にも選定されているとのことであった。
  くまモンのおかげで人気アップ中の熊本であるが、時間があれば阿蘇方面のみならず、ぜひ天草まで足をのばされることをお勧めしたい。

 
 ペンリレー <天草への旅> から