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<ペンリレー>

発行日2013/11/10
白根病院  那須 宏
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『海の見える病院』を読んで  ― マグニチュード8を超えたら ―
 
 
昔から机の両側は書類やら本やらうずたかく積まれている。いつか役に立つ、時間があったら読んでみようと考えてしまう悪い癖である。今回もたしか日経メディカルの広告に『海の見える病院』―語られなかった雄勝の真実―(辰濃哲郎、医療経済社)という本の紹介がありいつか読もうと思っていました。8月の当直前日にジュンク堂にてさっそく買い求めた(以下本より引用)。
 雄勝は石巻市にあり、牡鹿半島の北、国道398号線で石巻-女川-雄勝-志津川-気仙沼と連なる三陸海岸沿いの町であった。旧雄勝町は人口4,000人弱、65歳以上人口45%の超高齢化の漁業の町で、2005年石巻市と合併していた。病院は国道を隔てて雄勝湾が見え、かつて緒形拳主演の『ミラーを拭く男』という映画で『海の見える病院』のワンシーンに選ばれた風光明媚なところであった。外来は主に院長、副院長、歯科部長の3人で行われていた。さらに入院患者さんが40人おり、その平均年齢は85歳であった。
 3月11日2時46分は突然やってきた。大きな地震があり津波の恐れを感じ、薬剤部長と事務職員1名は、400m離れたやや高台にある雄勝市庁舎の駐車場に自分たちの車を移動させた。さらに看護職員2人にも声をかけ彼女らの車も移動させた。2日前にも三陸沖で震度5弱の地震があった。その時は車を移動させることはなく、津波の高さは50cmであった。午後2時50分気象庁の津波の予報は高さ6mであった。なお60年前チリ地震の時、雄勝地方の津波は4mであった。病院は本館、新館からなり3階建て、その高さは10mであった。病院の下水道工事に来ていた現場監督さんは院長、副院長さんらに「山さ逃げた方が良い」と説得したが、「患者を於いて逃げられない、さあ戻りましょう」との副院長の一言で、地震後玄関先に出ていた職員は病院に戻った。現場監督さんは「この揺れはただ事ではない、あなた方は臨時採用だから」と強引に手を取り事務職員2人を病院に繋がる丘に避難させた。既に訪問診療に出かけていた外来看護師2人、運転のボイラー技士1人、朝から会議でいなかった事務長の計4人は病院外であった。薬剤部長ら2人が病院から4台の車を移動させ、雄勝市庁舎より病院に戻る途中、家族に電話した時刻は3時11分であった。数分して山側の側溝からゴボゴボと音がし始め、病院玄関前に来ると津波が足下を横切っており、2人はあわてて病院に駆け込んだ。結局病院内には26人の職員がおり、その後非番の看護師1名、薬剤助手1名が地震とともに病院に駆けつけた。患者さん1人を4人1チームでシーツの端を持ち階段で屋上に避難させた。気象庁は3時14分に津波予測を10mに変更した。患者さん数人を移動させるや否や、津波は10m~12mを超えて屋上に押し寄せた。屋上にいた職員らは3月の冷たい津波の海に放り出された。流されてきた屋根などに乗り移った人7人が目撃され、その後運良く流れてきた漁船に移った人1人、乗り移っていた屋根が岸辺まで流されたとき、自らダイブしタイヤにつかまり必死で泳いだ1人が奇跡的に助かった。院長は流されている屋根から屋根を伝わり漁船に移っていた。後からもう一人泳いでその船に事務職員が乗り移った。院長は2人で海に流されていた女性2人を引き上げた。しかし小雪混じりの風雪に、助け上げた女性1人とともに院長は漁船内で目を覚ますことはなかった。事務職員と見舞いに来ていたもう1人の女性が別の船の機関室で寒さをしのぎ、3月12日10時海上保安庁のヘリコプターで引き上げられ助かった。病院の3階の時計が止まった時間が3時27分であった。今回の震災で雄勝病院は患者40名、職員24名が犠牲になった(助かった病院職員1名の方は取材ができなかった)。2011年9月25日、雄勝病院「お別れの会」実行委員会(患者の会)が主催し、亡くなられた患者さんと職員の合同葬儀が実施された。生き延びた看護師の手記が入院患者さんの状況説明のため代読された。
 以上がこの本の要旨である。亡くなられた皆さまの心よりの冥福を祈るものである。作者は傷ついた人々に敬意を払い、時間が人々の心を癒すまで待って取材されたように思う。今回の震災の対処に関し「雄勝病院の防災マニュアルでは2階より上に避難する」であった。「患者を置いて逃げられない、さあ病院に戻りましょう」というのは疑問の余地のないことであった。今回感じられた地震はかなり大きく、気象庁の予測される津波の高さ6mとの報道から、病院の2階でなく3階以上に全員避難させなくてはと緊張し病院に戻ったと思われる。さらに3時14分気象庁が津波の高さを10mに引き上げた時、職員の恐怖と絶望は想像を絶するものがある。一般に震災時患者さんの生命を守ることは、医療を平等に受けるなどの権利より先んずるものと考えられる。しかしながら今回のようにマグニチュード8を超えたら(最終的にはマグニチュード9)、病院でもベッドの下に救命胴衣を置く、マグニチュード8以上のときは患者さんにそれを着させ、職員も身に付ける、あとはそれぞれが必死に生き残ることにチャレンジする。ちょうど飛行機が海上で遭難した時のように。千年に一度の震災の場合、自然法?として病院職員も患者さんも生き残る権利は平等ではないか。全員を助けるという発想をなくし対策を立てたらどうだろうか。学校などと異なり病院においては、歩ける人、車いすの人、担送の人と分け、生き残る対策を立てたらどうだろうか
南海トラフの巨大地震が予測される地域では、個人の家で救命ボートを準備しているとの話も聞こえてくる。
 次回は元第一内科の後輩、牛島小学校通り「のりこ皮ふ科」の佐藤典子先生にお願い致しました。
 
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