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<ペンリレー>

発行日2012/07/10
秋田緑ヶ丘病院  高橋 賢一
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あの日
 
 私の子供の頃は高度成長まっさかりで、釜石市の人口は十万人で岩手県第二の都市でした。その後製鉄所は規模が縮小され、人口も半分以下になってしまいました。通った幼稚園、釜石小学校、釜石第一中学校は廃校になり、釜石南高校は統合されて名称が変わりました。商店街はシャッター通りとなりました。また、多くの友人も釜石を離れ、母の様子を見るため帰郷するたびに寂しい気持ちになったものでした。そんな中であの震災が起こりました。
 三陸大津波の教訓から、地震イコール津波と思う習慣が身に付いているので、すぐに津波のことを考えました。あらゆる情報手段が寸断されるなか、唯一医局にあったポータブルワンセグテレビのスイッチを入れると、偶然にも釜石市が津波に襲われる映像が放送されていました。市内には85歳の母がひとりで住んでいました。高齢者対応マンションの5階に住んでおり、また津波避難公園に隣接しているので、外出していなけれぼ大丈夫と考えました。しかしあの報道以後釜石の映像が流されなくなり、報道で被災地の津波被害の深刻さが明らかになるにつれて不安が強くなりました。翌日は土曜日でしたが、ガソリンスタンドが営業していなかったり、長蛇の列が出来ていたりで、車で安否を確認しにいくことは困難と思っていました。日曜日になり午前中もどうしようかと悩んでいたのですが、秋田道は開通したという報道があり、釜石まで行けるところまで行ってみようと思いました。ひとりで行くつもりでしたが、結局は家族全員で行くことになりました。
 昼過ぎに出発しました。開いているスタンドがあり満タンにして高速道路に上がりました。一般車両は走っておらず、北海道ナンバーの消防車などの緊急車両が何十台も列をなして走行していました。なんとかそれらの車列の前に出ることが出来ました。この先給油出来ないかもしれないと思って、錦秋湖のサービスエリアで給油しました。ふと後ろを見ると、救助隊も同じように考えたらしく、後方には何十台もの緊急車両が列をなして給油待ちしているのが見えました。北上一遠野ルートをとったのですが、途中で検問があり、緊急車両以外通行できないと言われて、別ルートを探してなんとか遠野の道の駅までたどり着きました。さらに進むと再び警察の検問がありました。新しい国道はトンネル崩壊の危険があり通行止めとのことでしたが、事情を話したところ、旧道の仙人峠は通れると教えられ、特別に通過させてもらいました。やっと釜石駅まで1キロのところまで来たのですが、今度は消防団があちこちで検問していました。2日たっているにも関わらず、まだ津波がくる可能性があるためこれ以上進むのは危険と説明され、秋田に帰るように説得されました。探すのを諦めかけて迷走していると、川の対岸の道路にでることができました。しかし道路には障害物のように被災した車が行く手に何台も放置され、車でのこれ以上の通行は不可能となりました。
 空き地に車を止めて、徒歩で母親のマンションに向かいました。瓦礫の中を自衛隊員が隊列を組んで移動しておりました。どの道路もヘドロ臭のする真っ黒い瓦礫の山で埋め尽くされていました。瓦礫は釘などが出ておりとても危険でした。瓦礫の上には、沢山の乗用車が積み重なっていたり、救急車や消防車が放置されていたりと、津波の瞬間がそのままで残っているようでした。電柱も倒れ、信号機も折れ曲がっているような状態でした。まさに、目を疑う驚愕の光景が広がっていました。瓦礫の山や隙間を進んで、やっとの思いで母の住むマンションにたどり着きましたが、瓦礫が入り口を塞いでいて通れませんでした。ここは津波避難所の公園に隣接していましたが、3mの高さの津波の痕跡がありました。なんとか入り口を見つけて、5階の部屋に入りましたが、母は見つかりませんでした。
建物全体に人がいないことに気がつき、避難所を探すことにしました。最初に津波避
難所となっているお寺に行ってみました。ここでは母は見つかりませんでした。さらに
次の避難所となっている裁判所に行ってみると、そこは夕方の炊き出しの最中でした。そこの人たちは、今日はまだおにぎり1個を食べただけだと話し、具のないみそ汁を紙コップですすりながら、津波で流された人の様子を興奮した口調で話していました。被災直後なので、落胆や抑うつなどよりむしろ興奮気味のようでした。津波の後に市街から来たのは我々が初めてだったようでした。名簿に名前を見つけて懐中電灯で探すと3畳くらいの暗がりの部屋に高齢者ばかり7、8人座っていました。その中に母がいました。
 秋田に連れて帰ることになりましたが、あたりはすっかり夕暮れとなり、暗がりが広がっていました。懐中電灯を頼りにして、母を背負って歩きますが、瓦礫が邪魔になりなかなか進みません。まるで『北斗の拳』の廃嘘を再現したような映画のセットの中を彷裡っているような錯覚に陥り、現実感がありませんでした。最後には通行止めのバリケードを解除して車を入れて進み、母を乗せて釜石を出ました。もう夜になっていました。帰りも国道で出会うのはライトをつけた自衛隊や救急灯を点灯した消防車だけでした。怪獣映画の夜のシーンと同じでした。国道と高速道路には一般車両がほとんど走行していませんでしたので、秋田にはスムーズに戻れました。給油もしないで済み、意外とレガシーワゴンは燃費がいいと感じました。
 秋田に母親を連れて戻ったところまでは良かったのですが、今度は母親の歩行困難が進行し、「いつ秋田に帰る」と話すなど認知症の症状も急激に出現してきました。寝ずの番状態となり、いろいろ派生する問題も多く、家族対応限界と考えて20日程で老健に入所してもらいました。しかし入所して数週間で間質性肺炎に罹患し、4日ほどで亡くなりました。最近は津波関連死が報道されることがありますが、関連死の定義には入らないかも知れませんが、母のような経過の人も多くいるものと思いました。私にとって「3・11」は忘れる事のないものとなりました。
 最後になりますが、母親の秋田での避難生活では、老健や市の職員の皆様には大変お世話になりました。また県や医師会はじめ秋田県民の方々から釜石に多大なる援助をしてもらい感謝しています。
 次回は秋田緑ヶ丘病院の後藤時子先生に御執筆していただくことになりました。先生は女性初の日本精神科病院協会理事に就任され、また最近たいへん興味深い本を書かれております。ご期待ください。
 
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