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<ペンリレー>

発行日2011/07/10
御野場病院  三浦 邦夫
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この数ヶ月の出来事
 
 この震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地で救護に当たられている先生方に心から、感謝申し上げます。
 この4月から、30年間勤務した秋田赤十字病院を退職し、御野場病院に赴任しました。引っ越しの荷物を片づけていた時、土崎病院の高橋薫院長から電話が来ましてペンリレーの原稿を依頼されました。
 私は昨年8月、65歳の誕生日を迎えこの3月には、めでたく定年退職し少し英気を養ってから、第2の人生を迎える予定でしたが、日本史上最大規模の災害“東日本大震災”が発生しました。3月11日午後2時46分、支払い基金の2階で仕事をしていた私は突然激しい揺れに襲われました。数分間揺れたあと、停電になりました。窓から下を見ると駐車場の車が南北の方向にゆすられていました。これは大変なことになったと思いました。揺れが収まったところで、基金を抜け出し、病院に向かいましたが、交差点は信号が消え大渋滞となりなかなか右折できませんでした。必死の思いで病院に到着すると、すでに救護班が出発準備をはじめており、メンバーが集まり次第出発するということで17時には出発しました。市内は停電でしたが病院は自家発電でエレベーターが動いていないこと以外は、被害はなかったようでした。夕食の給食はエレベーターがつかえないため院内放送をして職員を階段に並ばせバケツリレーをして上の階に運びました。このときは職員の活動に感激しました。電気もなく、テレビもなく携帯もつながらず、暖房もない状態で、情報は少なくガソリンスタンドも休業、といういままで電気に頼っていた生活がこんな状態になるとは思ってもいなかったのでした。その後は病院に災害対策本部を立ち上げ連日院長と、救護班の派遣、東北地方のほかの赤十字病院の情報の収集と支援、それから自院でのこれからの診療、被災地からの搬送受け入れなど連日協議を重ねました。特に石巻赤十字病院からはテレビで見るような光景がメールで寄せられ人員と食糧衣料品などを救護班と一緒におくりました。その後物流は回復しはじめこれまでの自転車通勤から車通勤に戻りました。その間合間をぬって、次にこの副院長室の住人になる方のために山ほどある古い書類や学会雑誌をかたづけというか捨て、パソコンのデータを消去しました。そして3月31日、宮下院長から定年退職の辞令を頂き、職員のアーチをくぐって病院を出ました。
 4月1日から御野場病院に移動しまして、2ヶ月が経ちました。
 本来ならばペンリレーの題は定番の“鉄道関係”ということになるのでしょうが、今回は災害復旧情報しか書けません。3月に新青森まで全通した東北新幹線もやっと全面復旧しました。さらには九州新幹線も全通しこれで、青森から鹿児島までレールがつながったことになります。しかし新型車両の“はやぶさ”もまだ徐行区間があり本来のスピードは出せていません。毎日JR東日本のホームページをみて鉄道の復帰状況を確認していましたがもう東北全体の地図は出なくなりました。今でも不通になっているのは仙石線と、原発の影響の常磐線、気仙沼線、石巻線、山田線だけになってしましました。仙石線はいまだ高城町までしか開通していません。仙石線は最近では新型の電車になりましたが、子供のころは旧型国電が走っていて陸前原ノ町駅には車庫がありいろいろな形式の電車がいました。旧型国電はぶどう色で釣りかけモーターの音が独特の捻り声をあげていました。最近では新型の電車になり地下化され、楽天イーグルスのホームグラウンドであるKスタ宮城球場の最寄り駅である宮城野原駅もありますが、塩竃神社の初詣、海水浴など家族で乗った思いでのある仙石線でしたので一刻も早い全面復旧が望まれます。
 仙山線も愛子と山寺の間が不通でしたが、やっと開通したようです。仙山線は中学校の裏の築堤を走っていて、北仙台駅が近くにありました。当時は一日4往復しか走っていなかったですが、C58型蒸気機関車が走り、その後、交流電化の試験区間となり試作機のED45型、そして赤い交流電気機関車が走っていました。今では通勤路線として幹線になりました。
 気仙沼線は学生時代管弦楽団の合宿で行く時乗りました。大島の美しい海を覚えています。宮城県で生まれ青春時代を過ごしたところですので早い復興を祈ります。
 この2ヶ月いろんなことがあったものですから現況を書いてしまいました。次に何か機会があれば趣味の“鉄道シリーズ”を書きたいと思います。
 
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