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<ペンリレー>

発行日2002/03/10
秋田県立脳血管研究センター  鈴木明文
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あれこれ
 
 1949年に伊豆大島のクダッチで生まれ、翌50年から三重県津市で育ち、1974年三重県立大学医学部を卒業しました。松坂中央総合病院という厚生連の病院で全科ローテートの研修をさせていただき、ベン・ケーシーの世代ゆえ脳神経外科を目指しましたが大学にまだ脳神経外科の講座がなかったため、秋田県立脳血管研究センターの研修医募集のパンフレットを思い出し応募いたしました。幸い採用され1975年6月1日ロータリーエンジンの力ペラに家財道具を積み(フトンと炊飯器、多少の食器、本や雑誌程度でしたので全て積み込めました)秋田へまいりました。
 1975年前後というのは大阪の吉本新喜劇が盛んに全国展開を図っていた頃で、津々浦々何処へ行っても漫才や喜劇による関西弁がテレビから流れていました。秋田で関西弁を聞くのはテレビでしかなかった時代ですから、話す内容に関わらず「関西弁=お笑い」という解釈が一部で(あるいは大部分で)常識になっていました。病棟で私が三重弁でしゃべると、まじめな話しをしているにもかかわらずクスクスと笑いが聞こえてきます。最初は理由がわからなかったのですが、わかってからは標準語に近い言葉でしゃべるようにしました(両親が関東出身のため日本語については三重弁と東京弁のバイリンガルで育てられました)。以後現在に至るまで三重弁からすっかり遠のいてしまい、たまに三重に帰って同級生と話しても「あんなあ」とか「あかんわ」とかしゃべることが出来ず、「瞬間的にんだ」とか「へば」とかが口から出ています。私の言葉はそれで解決しましたが、秋田弁が全くわかりませんでした。看護婦さん、技師さんは気を遣って私に対してはわかりやすくしゃべってくれましたが、彼らがお互いにしゃべっていると全く理解できませんでした。患者さん、特にお年寄りの患者さんが話す内容も全く理解できませんでした。仕事になりません。そこで、診察には必ず通訳の看護婦さんについてもらい秋田弁の理解に努めました。今はしゃべることは片言しか出来ませんが、理解することはほぼ完壁になりました。
 当初は長くても数年で三重へ帰るつもりでした。しかし、住むほどに秋田の良さに魅せられました。脳卒中の病態解明と治療の確立を目指し熱く活動していた脳研センターの諸先輩に刺激されました。秋田県の手厚いサポートで診療と研究を両立させた環境から離れ難くなりました。そして気付けば27年近く経過し、三重県で過ごした年月をとっくに越していました。秋田へ来てしばらくは雪が珍しくスパイクタイヤを履いてあちこち出かけていました。吹きだまりに突っ込んで動けなくなり近所から集まった人々に押し出していただいたことも幾度かありました。まだ三重ナンバーでしたから雪には素人と思われ(実際そうでした)毎回貴重なアドバイスを秋田弁でいただきました(当時はほとんど理解できませんでした)。往診に行った先の凍った雪道で滑って膝を捻らせながらシコタマ打ち十字靭帯を損傷して歩けなくなったこともありました。たまたま湖東総合病院から脳研センターにおみえになっていた整形外科の相沢健先生(現、相沢整形外科医院院長)に関節から血を抜いていただき、患者さんから杖を借りて何とか仕事を続けた記憶もあります。様々な経験を通して雪に対する私なりの怖れが出来上がってしまいました。スキーは27年間のうち4回程度の経験しかなく、中学から剣道、バレーボール、学生時代は講義そっちのけでテニスに明け暮れていたことを思えば秋田へ来てからのスポーツ歴はなさけない限りです。しかし、歳をとるほどに意欲だけは単純に燃え上がるようになってきましたので、何とか実行へつなげようと固く決意を(しようと)している今日この頃です。
 ところで最近は動脈硬化の程度を手軽に検査出来る時代になりましたが、先日脳研センターにもその機器を導入しました。早速自信をもって測定してもらいましたが、器械の信頼性を疑いたくなるような非情な結果でした。脳にくるか、手足にくるか、心臓にくるか、その後は漠然とした不安を感じながら美味しい秋田の日本酒で紛らわしています。次は秋田県立脳血管研究センター長田乾先生ヘリレーします。
 
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