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<ペンリレー>

発行日2011/03/10
土崎病院  小林匡
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雪の思い出
 
私は、新潟県の西寄りにある高田市と言うところで生まれました。高田市という地名は今はありません。昭和の時代に日本海に面した直江津市と合併し、上越市と名前を変え、平成になりさらに周囲の町村と合併し(面積だけが)大きな上越市となりました。
 海沿いを除くと上越市は昔から雪の多いところです。特に私が生まれた高田は、平野部としては日本の最深積雪377cmを記録したことがある所です。最近では、大雪になることは少ないようですが、少なくとも私が暮らしていた高校時代までは、多くの雪が降ったと記憶しています。
 小中学校のころは、電車やバスで通学している生徒が少なからずいたのですが、大雪の時は、これらの交通機関が使えなくなることがよくありました。交通機関を使って通学している生徒は休むことができましたが、我々は徒歩通学だったため、どんなに大雪でも休むことはできませんでした。でも、このような時は楽しいものでした。授業は自習が多いため、遊び時間のようなもの。給食の時間には、休んだ生徒も分まで食べることができたので満腹。
 小学校では、冬の間の体育の授業はスキーでしたが、学校の近くには山や坂がないためにグラウンドでの平地滑走ばかりでした。「カンダハー(記憶違いかもしれません)」という名前のビンディングでスキー靴の先端を金具で挟んでスキー板に固定するだけの簡単なものでした。固定されているのが先端だけで踵がスキー板から離れるので、歩きやすくなってはいるのですが、グラウンドを何周も平地滑走するというのは非常に辛い運動です。ひとシーズン中に一度だけ、「日本スキー発祥の地」とされている金谷山という小さな山での授業があったと記憶しています。学校から4~5km離れている金谷山までスキー板を担いで歩かされました。リフトには乗せてもらえず、滑り降りた坂を自力で上ることの繰り返し。
 学校から帰れば、かまくらを作ったり、雪道に落とし穴を作ったりして遊びました。今のような防寒靴ではなくゴム長靴を履いて遊び、いつの間にか隙間から入ってきた雪のために長靴の中は靴下とともにぐしゃぐしゃに濡れてしまいます。ストーブの前に敷いた新聞紙の上に長靴を置いて乾かしていると、ゴムの焦げた様な臭いが漂ってきます。足の小指は何時も「しもやけ」。
 日中、天気が良くなり気温が上がると積もった雪が溶け出します。天気の良い状態が翌朝まで続くと放射冷却のために、前日溶けた雪の表面が凍りつきガチガチに硬くなります。広々とした雪野原をグラウンドの様に自由に走り回ることができます。水田に積もった雪の上には行く手を遮る物はなく、自由に移動できます。子供の頃、「しみわたり(これも記憶違いかもしれません)」と言って楽しんだものです。
 屋根に雪が多く積もると、重みで襖や障子戸の滑りが悪くなります。夜中に、ミシミシという不気味な音も聞こえてきます。家が倒壊するのではないかと怖くて眠られなかったこともありました。雪下ろしが終わった後は、新たな遊び場所ができあがります。屋根から下ろした雪の山が屋根と同じくらいの高さになり、2階の窓から出入りができるようになります。家の外壁と下ろした雪の間にできた空間には秘密の基地ができあがります。
 高校時代の大雪の時に、雪下ろし業者の手が足りずに体育館が危険な状態になりました。休校になっていたのですが、徒歩での通学だった我々に「シャベルとかんじきを持って登校せよ」との連絡がありました。生徒に雪下ろしをさせるなどと言うことは、雪下ろし中の事故が絶えない現在からは考えられないことですが、みんなで楽しんだ思い出があります。
 最近の大雪にはうんざりしていますが、子供の頃の雪は、辛いことよりも楽しいことの方が多かったように思います。雪の思い出を思いつくままに書いてみました。

 
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