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<ペンリレー>

発行日2009/09/10
秋田赤十字病院  黒川 博一
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アイサオ・エイオキの栄光-Tennessee編
 
 舞台は1998年6月のBel1South Senior Classic。青木選手は、初日、2日目と絶好調で記録的なアンダースコアだった。最終日のスタート時、後続とは確か8打差の首位。私はゴルフをやらないし、プロツアー観戦の経験もなかったが、ここはひとつ青木選手の優勝する姿を見に行かねばならないと、妻を焚き付けて、ついでにご飯も炊きつけて、おにぎり持参で出かけたのであった。
 Springhouse Golf Clubは、Nashville最大のホテル&リゾート、“Opryland”の一角に位置する美しいコースである。自宅から車で約20分、指定された駐車場からは大型バスが観客を輸送する。私たちはチケットを持っていなかったので、バスに乗るとき係員にチケットはコースで買うのかと尋ねたところ、ちょっと待ってろと言い、間もなく招待券2枚を持ってきてくれた。何かよく事情がわからなかったが、へたな英語は時に通じすぎることもあるのだ。もちろん逆の場合が圧倒的に多いが。
 私が当地に移り住んでから、ちょうど一年が経っていた。いわゆるポスドクのresearchfellowとして、大学で抗癌剤の耐性機構を細胞レベルで研究していた。ラボの仲間は多国籍で、まずボスが南米エクアドル、以下、フィンランド、カナダ、オランダ、ドイツ、ロシア、イタリア、米国、そして日本。細胞生物学の研究手技や手法はいわば世界共通の言語であり、別に英語が片言でもなんとかなるものだ。実験に没頭しているときは、遠い異国にいることをあまり意識しなかった。が、仕事を離れると話は別で、わいわいとお互いのお国自慢をすることも多かった。特に食べ物については皆それぞれ譲れない主張があった。私も日本代表として、ちらし寿司(SushiTaro)の当地での普及に妻とともに力を注いでいた。
 さて、首尾よく招待券をもらってバスに乗ったのはよかったが、一転にわかに空がかき曇り、ものすごい雷雨になった。こういうときの降り方は半端でない。一瞬のうちに泥になった駐車場の地面が踊り狂って煙のように立ち昇るのである。どうやらプレーは中断しているようだ。バスの中で15分ほど待たされたが、コースに着くころには雷雲は通り過ぎて、さっきの豪雨がうそのように鎮まった。ゴルフ場をギャラリーとして歩いたことがないので、小雨の中をあちこち探してようやく青木選手の最終組を見つけた時には、すでに7番か8番ホールであった。ちょうど第2打を打った青木選手、それがはるか先の林の中に入ってしまったようで、暫定球を打ち直しているところだった。さすがに硬い表情。まさにこれがこの日を暗示する場面で、結局彼の笑顔を見たいがために最終ホールまで緊迫した観戦を続けることになったのである。
 アウトを終わってお昼、このときスタート時の8打差が確か2打差くらいまで縮まっていた。追い上げるのは当コースSpring house Golf Clubの設計者であり、青木選手と同じ最終組でこの日バーディーを取りまくっている、Larry Nelsonであった。私たちはクラブハウスの横のベンチで我らの誇るファストフード、オニギリをそそくさとほおばった。青木選手もおにぎり食べているかなあ、もしハンバーガーしかないんだったらこれを分けてあげたいなあ、などとしょうもないことを考えながら。
 インに入って13番ホールあたりから、今度はぐんぐん気温が上がり、照りつける太陽から木陰に避難しなければいけないくらいになった。肌寒かった午前中との気温差は15度以上だろう。青木選手とLarry Nelsonは依然2打差、あるいはいよいよ1打差だったかもしれない。そしてもう一人、じわじわとスコアを上げてきたのが最終組第3の男、最強のシニアプレーヤー、Hale Irwinであった。知らないうちにLarry Nelsonに遅れること1~2打というところまで迫ってきていた。
 青木選手は相変わらずスコアが伸びない。特に、グリーンをはずす場面が多く、バーディーが取れない。むしろ、長いパットを残してなんとかパーを拾っているという局面がたびたびあった。しかし、このへんが青木選手の本領だったのかもしれない。グリーンははずしているものの、彼なりに攻めていった結果であったのだろう。連続バーディーで勢いよく上昇してくる後続に対して、決して追いつかれずに踏みとどまっている。見ている方にとっては胃が痛くなるような緊張の連続で、ゴルフなどほとんど縁遠かった私が完全に真剣に引き込まれてしまった。
 ずっとそういう緊張を引きずったまま、最終ホールの花道に3人がやってきた。実はこのとき1打差だったか2打差だったかよく覚えていない。でも、青木選手はすでにグリーンに乗せていて、よほどの失敗がなければいよいよ優勝というところまで来ていた。ここまで長かったこと、私たちが見ていた部分だけでもそう思うのだから、3日間のトーナメントで戦い抜くのがいかに大変なことか思い知らされた。
 「Mr.Larry Nelson」と紹介の声がかかる。今日の活躍に盛大な拍手が送られる。続いて第一人者、Hale Irwinのところでひときわ大きい拍手。私はふと、青木選手にもみんなこんなに拍手してくれるだろうかと不安になった。最後に青木選手はゆっくりゆっくり向かってくる。「ミスター・アイサオ・エイオキ!」、その声にいつもの帽子を軽く持ち上げて、今日初めてにっこり笑ったその瞬間、大観衆のやんやの大喝采、いつまでもいつまでも鳴り止まない。自分の心配がいかに的外れだったか私はとても恥ずかしく、みんなに負けじと手がちぎれるほど拍手を続けた。
 日本を背負っているんだな、と思った。もちろん青木選手が、であるが、それを目の当たりにした私こそが実はそうだったのかもしれないと気付いた。日本にいるときにはおよそ縁のなかった感情を、nationalityとかethnicityとか、そういった無意識のうちに感じていたものを、今この青木選手に向けられた大歓声が期せずして明らかにしてくれた。こんなことを考えるのは日本人だけだろうか。いや、オランダ人もイタリア人もエクアドル人もみんなそれぞれ背負っているんじゃないかなあ、と思う。それとも抱っこしているのかもしれない、だから隠れて見えにくいのだろう。
 青木選手にはまだ大事な仕事が残っていたが、ファーストパットがあわやバーディーの好タッチ、最後は儀式のような幕切れであった。大ギャラリーにまぎれて、私はアイサオ・エイオキの勝利の表情を見届けようと、ぴょんぴょん飛び跳ねていた・・・・・・。
 
 PGA(全米プロゴルフ協会)が運営する50歳以上のSenior PGA Tourは、2003年からChampions Tourと名称を変えた。2009年は26トーナメント、年間賞金総額は5000万ドルを超える。一部の4日間のメジャー大会を除くほとんどは3日間のラウンドで争われ、“cuts”(予選)はない。往年の名選手の余興などでは決してなく、皆が今なお現役のチャンピオンたちであり、ツアーとしてのステータスは非常に高い。
 PGAは全シニアメンバーのシニアツアー通算獲得賞金ランキングを掲載している。断然の1位がHale Irwin、5位にLarry Neison、我らが青木功選手は9度の優勝を含む935万ドル余りを稼ぎ、全998人中、堂々の17位にランクされている。

 同期の華、須藤まき子先生からご指名を頂戴しました。次は同期の俊才、あきた健康管理センターの飯塚政弘先生にお願いさせていただきます。我らもいつの間にかシニア世代、卒後四半世紀の長く短く、ほろ苦くも麗しき日々に思いを寄せて。

 
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