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<ペンリレー>

発行日2009/07/10
外旭川病院  須藤まき子
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松田先生 ありがとうございます
 
 今回、あきた健康管理センターの伊多波 未来先生からリレーを依頼されました。なにを書こうか迷っておりましたが、テーマは何でもよいということなので、今一番思うことを書こうとするとやっぱり松田 淳先生のことかなと思います。
 昨年八月に天に召された松田先生は、私にとって中通病院の小児外科の先生ではなく、禁煙について活躍されている高名な先生でもなく、医師にとどまらず社会的に活躍されている先生としてでもありません。松田先生はバドミントンをして、コートの中でフットワークをして、会う時はいつも走っているそんな姿です。私は秋田大学医学部の九期生ですが、まだその頃は女子学生が少なく、部活も運動系では卓球部に女性の先輩がいらっしゃるくらいだったと思います。あとはマネージャーかなという感じで、マネージャーっていう柄でもないし、同級生の女子学生に連れられてバドミントン部を見学に行きました。そこで見たものは秋大医学部体育館から手形山まで登って下りて医学部の敷地内を一周してゼーゼーいいながら走ってくる諸先輩の雄姿でした。なんとそれが練習前のアペリティブ、それから本錬が始まるのでした。それを見たのになぜか、もう一人に引きずられるように入部しました。女子部というものはなく、もちろん先輩達もどう扱っていいのか戸惑っていたと思います。基礎練習を男子と一緒に教えてもらい、体育館に行っては基礎練習をやっている半部員みたいな立場でも、あの松田さんという先輩がこの部の中心なのだということがすぐわかりました。松田さんはその時、医学部の5年生。その頃はちょっと大げさに言うと神様みたいに遠い存在でした。社会人の人と練習しているんだってなんて、みんなうれしそうに噂したりしていました。事実、東医体で優勝するくらいすごい方だったのですが、バドミントンが上手だとか強いというだけでないストイックな感じがあり、とてもやさしくして下さるのですが孤高という言葉が似合っているような雰囲気でした。私にとってはヒーローで、松田さんのシングルと松田・戸堀ペアのダブルスの試合を応援している時が唯一、バドミントン部の部員だと実感できる瞬間でした。一度、当時の新潟大学のキャプテンに注意されました。「あのさ、松田の敵は君の敵じゃないんだからさ、そんなに怖い目で睨まないでね」って。
 そして松田先生は卒業されました。卒業後、大学病院内や三吉神社付近で時々、お会いしましたがこちらが図々しくなったのか、学生の時よりもずっと話しやすくて松田さんもニコニコと応対して下さいました。あの忙しい小児外科をやりながらもランニングを欠かさず「5キロ、10キロは朝飯前だ」と言って朝飯前に走ったりしていました。そして数年後、医学部バドミントンOB会を立ち上げて下さったのです。あんなに忙しいのに、人に頼むより自分でやったほうが気が楽だからと面倒な事務仕事もほとんど一人でやっておられました。何にも手伝えない私はただ会費を振り込むだけでしたが、たまに松田さんから印刷物が届くとうれしくて引出しにしまい込んでいました。久しぶりにお会いして「なんかあったら、いつでも電話よこせ。」って言って下さった時には涙が出そうでした。いつお会いしても笑って話してくれたのに…突然、天に召されるなんて。
 松田さんは亡くなる直前まで現在のバドミントン部の学生に練習をつけに来て下さっていました。強くなった後輩たちを心から喜んでくれていました。そんな時、私の息子(バド部部員)に会うたびに「お母さんにいつもありがとうって伝えてね」と伝言してくれました。何をおっしゃいます松田さん、お礼を言いたかったのは私です。一万回言っても百万回言っても足りないのに、結局一回も言えなかった。松田さんは今も天国でバドミントンをやっていますか。松田さんは人の何倍も生きたと思いますし、私たち後輩の心の中には今も生きているのでもう泣くのはやめようと思います。でもこの場を借りて申し上げたいのです。 松田さん、本当にどうもありがとうございます。

 次は秋田赤十宇病院呼吸器内科の黒川博一先生にお願いしました。
 
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