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<ペンリレー>

発行日2007/07/10
中通総合病院  川原聡樹
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私のバスケットボール半生
 
 趣味と呼べるほどではありませんが、今年で44歳になる体に鞭うって、6、7年前から毎週、バスケットボールを若い人に混じってやっています。所属しているクラブは、私が勤務している医療法人の職員共済会の同好会クラブ(男女)で、昨年秋に開催された市民スポーツ祭バスケットボール大会では、準優勝という好成績を残しました。ただ、この結果は一朝一夕で成されたわけではなく、初参加の6年前と翌年の大会は1回戦負けというどん底を経験し、以来だんだん人が集まるようになり、昨年の成績を治めるまでに成長しました。最近は、試合における私の役割はなくなりはしましたが、これまでのチームの成長には少しだけ貢献したかなという思いはあります。
 チーム名は、男女それぞれあって、男子はドルフィンズ、女子はホワイトエンジェルズです。メンバーの職種は、放射線技師、臨床検査技師、看護師、薬剤師、臨床工学技師、視能訓練士、病院事務職、介護福祉士そして私のような医師などの病院職員や、MRさんや法人の看護学院生などの職員以外のメンバーが在籍し全員が揃えば男女合わせて25人程度の医療系職種のチームです。年齢は私がダントツの40代で下は男子看護学生の19歳で、平均26.7歳といったところでしょうか。明徳小学校の同窓生である倉光先生からの指名のこの機会に、私とバスケットボールとの関わりについて簡単に振り返ってみようと思います。

1.小学時代(結果的に現在までバスケットボールにおけるキャリアハイとなっています)
 私はバスケットボールよりはサッカーが好きで、4年生のときに、当時は今ほど人気のないサッカー部に入部しましたが、夏の炎天下の中の練習で体調を崩して退部し、ぶらぶらしていました。小学5年生になり、サッカー部の監督であったクラス担任から、何かスポーツをやったらどうだと勧められて、ドリブルに多少の自信があったので、やはり今ほど人気のないバスケットボール部に入部したのがきっかけとなります。当時の明徳小のバスケットボール部は、女子部は全国大会にも連続で出場する強豪でしたが、男子部は弱小部でした。私が6年生になったときに、男子部にコーチが就任し、メンバーに恵まれるという幸運が重なって、チームは短期間で強豪チームに変貌し、秋田市の大会で準優勝し、全県大会でも我々は決勝まで勝ち進み、秋田市の大会の決勝で苦杯をなめた同じ相手である外旭川小と再戦し、私は、この大事な試合の第3クオーターで、相手選手のファールにより左手首骨折という負傷を負ってしいましたが、チームはリベンジを果たし悲願の初優勝を決めました(男女ともに我が明徳小が優勝しました)。3月末に千葉で行われた全国大会への出場は、小学校最後の楽しい思い出として心に残っています。実は、現在までこの戦績以上を修めたことがなく、私のバスケットボールにおけるキャリアハイとなっています。(余談ですが、チームメイトに、現東邦薬品秋田営業所の所長の佐貫直之君がいます。)
バスケットボールのおかげで、有意義な、誇れる小学校生活であったと断言できます。

2.中・高校時代
 中学校は、明徳小のチームメイトとは離れてしまい、昨日の味方は今日の敵という感じになりました。もちろんバスケットボール部に入部しましたが、中学のバスケットボール部も弱小部でした。特別にプレーが上手いわけでもなければ、リーダーシップがあるわけでもない私が、優勝した小学校からのメンバーという事で一目置かれる存在だったのか、3年生の時には主将を努めました。成績はというと、コーチも不在で、見るべきものは残せませんでした。ただ現在までも親交のある友人がたくさんできて、バスケットボールのおかげで、充実したとても楽しい3年間であったと思います。(これも余談になりますが、チームメイトに、親友で、今春に血液センターから秋田赤十字病院に異動した事務の佐々木順君がいます。〉高校では、入学して1ヶ月で、中学3年間、適当にやっていた私と、しっかりやってきた連中とのレベルの差にとてもついていけないと考え、簡単に辞めてしまいました。だからというわけではありませんが、高校3年間は、文化祭以外に一つの事に熱中した思い出があまりありません。

3.大学時代(無二の先輩との出会い)
 東京における1年間の浪人時代を過ごして、日本医科大学に入学し、高校の時にわずか1ヶ月で辞めたことが気持ちのどこかに引っかかっていた私は、迷うことなくバスケットボール部に入部しました。そして大学6年間のバスケットボール部の生活は、私にとってはかけがえのないものになりました。日本医科大学バスケットボールクラブの創設は1931年で、私が入学した1983年当時は、クラブ創設メンバーの大先輩が何人かは存命しておられ、新人歓迎会や追い出しコンパ等でとても貴重な話しをしていただいた記憶があります。背中に、英字の大学名とSince1931というロゴが入った真っ赤なスタジアムジャンバーを誇らしげに着ていました。今ではもうサイズが小さくて、ボロボロになったスタジアムジャンバーは、私の宝物として自宅のクローゼットに掛かっています。当時のチームは、関東の医歯薬系大学では中位から上の実力がありました。また、一般の大学が所属する関東学生バスケットボール連盟にも加盟しており、日大や日体大といった今でも日本を代表するカレッジバスケのチームと同じ大会に出場する機会もあり、週に3回と限られた時間しか練習ができない医学部の我々とはレベルが違いすぎましたが、その後に日本代表選手となる学生と同じ空間を共有したのはいい経験だったと思います。私は低学年の時は、骨折や靭帯断裂など大きな怪我を繰り返し、4年生になってようやく試合に出場できるようになりました。それまでの度重なる怪我でバスケットボールに対し気持ちがくじけそうになった時、時には励ましてくれたり、じっと見守ってくれた大恩人の先輩がいます。1年先輩で年齢は3つ上の別所竜蔵という人です。現在は、日本医科大学付属北総病院の心臓血管外科部長で、第二外科の講師でもある彼は、私の人生観に多大な影響を与えてくれた無二の先輩です。詳しくは書きませんが、彼は大学入学までに、壮絶な人生を歩んできた人です。それ故に、彼が私たち後輩への言動や示した行動は、決して上っ面だけではない、リアルさをもって私の心を捉えたのです。一つ学年下という事もあり、大変可愛がられ、いつも陰になり日なたになり我々を見守ってくれて、高いところにどかっと座って、私の行くべき方向を指ししめしてくれるような存在に感じられました。先輩とすごした時間は、20年以上経った今でも色あせることなく、今でも燦然と私の心の中に輝いています。バスケットボールの戦績は大学時代も優勝とは無縁でしたが、先輩と出会えたことだけでもバスケットボール部に入部して本当に良かったと誇らしげに今でも思えるのです。

4.現在まで(もう一人の先輩との出会い)
 1989年の卒業及び入局とともに、私のバスケットボールも幕を下ろしたのだと理解していました。そして1991年に郷里に戻ってからも、ゴルフなどに挑戦はしてみましたが、長続きせず、およそスポーツとは無縁の暮らしをしていました。現在勤めている病院に、高校の先輩である瀬戸泰之先生が赴任して1年くらい経った頃、先生に、「院内の女子バスケットボールの練習相手として一緒にバスケットボールをやらないか」と誘われました。実は瀬戸先生は、私が大学1年生当時、関東の医科・歯科・薬学のバスケットボールの雄であった東京大学医学部バスケットボール部の主将を前年まで務め、その頃も非常に上手く、リーダーシップに溢れ、東大の瀬戸という名前は、他大学まで響き渡っていました。今の職場で再会した時には、体型的に当時の面影は全くない先生でしたが、女子バスケットボール部の練習で、懸命にボールを追いかけ、昔と変わらぬリーダーシップとカリスマ性を持ち合わせた姿に、大学時代を思い出し、私の眠っていた ‘バスケットボールヘの想い’が強烈に目覚めさせられたのです。以来、仕事でもバスケットボールでも、そして公私にわたり、尊敬すべきかけがえのない存在となりました。ずっと秋田にいてくれると思っていた先生が、数年後、残念ながら志半ばで秋田を離れてしまいます。しかし先生が注いだバスケットボールの情熱が、男子バスケットボール部創設にまでこぎつけ、そして昨年、秋田市大会準優勝を勝ち取るまでにチームが成長した原動力となったと言って過言ではありません。瀬戸先生がつけていたキャプテンナンバーの4番は、今でも我がチームの欠番となっています。
 そして今、瀬戸先生から託された形にな
た私の役割は、昨年の準優勝で、終わったかなと感じています。これからは、自分のため、健康のため、そして若かりしあの頃に戻りたいというかなわぬ願望を追いかけるために、怪我だけには気をつけて可能な限り愉しんでバスケットボールを続けていこうかなと思っています。

(余談ですが、‘おのば腎泌尿器科クリニック'の佐藤良延先生はチームOBです。)
 次は、10数年前に私の初めてのネーベンとなった、現在は並木クリニックの熊谷暁子Drにバトンをリレーします。
 
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