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<ペンリレー>

発行日2006/10/10
ウイロード・クリニック  玉川純雄
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私の来歴
 
(1) その始まりの事
 昭和18年生まれであるから、現在62歳である。生まれ育ちは北海道の超山村。両親は木材業者。ただし超山村とは言え、その山村は、私の後に、鈴木宗男、松山千春を輩出した、有名な「田舎」なのである。さて、私は両親の教育方針で、小学校6年生の時から札幌市の親戚の家に預けられ、北海道学芸大学附属札幌中学校を受験し入学した。ここまでは平凡な生活。多少、身体が弱かったから両親の忠告で、何かスポーツを、と云う事で当時の9人制のバレー・ボールをやった。その部は開設2年目。一年先輩が、部の設立と同時に札幌地区の「総体」で、いきなり3位にもなったものだから「二代目」の責任は重大となった。ありがたい事には、私たちの学年も、第3位となって、どうやら面目をほどこした。私は身長が高かったから、前衛の左、つまりポイント・ゲッターにされた。凄まじい「しごき」。私の最大の記録は「14連続サーヴィス・エース」と云うのがあるが、あれは前代未聞であろう。ついでながら、私の次の学年は待望の札幌地区の「総体・優勝」を果たし、強豪NO.1となったが、このチームの順調な仕上がりの背景は、国体の選手(札幌・教員チーム。国体4位)であった新進気鋭のコーチの最新理論に在ったと思う。

(2)その重大な続き
 私の父親は、46歳で、原発性の肝臓癌で病死したが、凄まじい「女実業家」であった私の母親の猛烈な企業経営によって、実家は東北海道では有数の木材業者へと発展してしまったのである。そこまでは良かった。高校に入学してから、私は数学系統に非常に弱い事を自覚したために(生物学も嫌いであったし)医学部の受験はやめて、文学部の社会学系統の分野に進む事を考えたのである。しかし、凄まじい反対に出会った。「お前は医者にするために育てて来た。医者になる気持ちが無いのであれば、家を出てもよろしい」との『許可』を頂いたのである。私の精神的な抵抗は、片端から一刀両断に叩き潰された。
 要するに「文学方面に進むような人間は、怠け者である」との偏見から来ていた。私の父親は、大変な蔵書家であり「シェイクスピア全集」から「大蔵経全集」!そしてショーペンハウエル、カント、その他、幾多の日本文学者の「全集」が書棚に並んでいた。しかし、これらの父親の「蔵書」類は、私の母親にとっては、憎んでも飽き足らない「文化」だったのである。母親も相当の読書家であったが、私の父親の場合は、徹底していた。さて、当時は、金があっても、本が手に入りにくい時代であった。私は父親の蔵書類の中から「愛読書」を探し廻ったりしたのである。

(3)強烈な「目覚め」
 昭和35年、札幌南高等学校の2年生の時に、今では「過去」となった感のある、日米安全保障条約の強行採決があり、一人の女子大学生が、国会に突入して、死亡した。この事件のインパクトは、私にとっては凄まじい物であり、我が高校の学内も騒然としたが、私は少年としての義憤から、ためらう事なく反戦運動の片割れのような行動を開始。しかし当時の、反戦運動の支柱としての思想団体は乏しく、結局、往年の日本共産党の傘下の「民主青年同盟」に加入し、教宣活動をやり始めた。医学部への受験勉強と並行しながらだったから、大変な辛さであった。かくて、結局は第一志望の北大医学部は断念し、弘前大学医学部に入学したのである。それからしばらくは浮かれて暮らしていたのではあるが、高校生時代からの「持続する志」は私の精神内界からは、まだ去ってはいなかった。「民青」の続きと云う事で、結局は日本共産党・弘前大学支部に、正式に入党したのである。
 ただし、問題だったのは、高校生時代とは違って、ただ「スローガン」を振り回して歩くだけではなく、自分が所属する組織である『日本共産党の歴史』も、自分流儀で勉強したのであったが、これは、納得が行かない事柄が多かった。結局は中国の水爆実験が契機となって、私は日本共産党とは決別したのである。この「スッタ・モンダ」で、私は教養部に4年間「在学」、そしてやっと専門課程に進学した。その後は、政治的活動としては特定の政党との関わりは持たなくなったが、専門課程では「弘前大学医学部新聞」の編集長となり、医療問題について探究し、執筆していた。そうしているうちに、昭和44年になっていた。「70年安保」が来た。時がその歩みを刻みつつ、我々を待っていたのだ。

(4)「全共闘」の登場
 いくら偉大なる旧制弘前高等学校が過去に厳然として存在したとしても、当時は、中央からは遠方だったためもあって、弘前大学には、日本共産党以外の思想集団は無いに等しかった。しかし関東方面から、ジワリ、ジワリと当時の「三派全学連」の影響が入り始めたり、これもまた耳学問ではあるが、弘前大学でも東大医学部の島成郎氏が結成した「ブント」(共産主義者同盟)を初めとする、様々の思想集団の教宣活動が始まった。当時の文理学部の安彦良和君(現在は「機動戦士ガンダム」で勇名をはせている)は、実は、弘前大学の「べ平連」の指導者であった。そして、あの「安田講堂」の直前に、私は友人を介して、当時の福島県立医大の学生、梅内恒夫氏(赤軍派)と知り合いになり、深い感銘と共感を感じたが、彼との出会いはそれ一回きりであった。その後の彼の消息は全く不明である。多分、中近東ゲリラ戦に加わり、無名戦士として、世を去ったのであろう。その点での完璧なまでに趣旨一貫していた梅内恒夫氏には、敬服するしかないと思った。

(5)その後の事
 F・エンゲルスの主張を裏返すと、思想は大衆の物とならなければ、物質的な力にはならない。つまり、立派な提言、論説、学説、出版物などを幾ら並べ立てても、根本的な意味での社会の変革は不可能に近い。このような事象は、近年の「論壇」と称する物を眺めれば、頷けると思う。ハーバード大学その他のアメリカ合衆国での客員教授をされている佐藤隆三氏の「日本では、どうして作家の社会評論が重視されるのか?」との疑問への回答は「日本では、何らかの組織に忠実でないと、その主張は公的に相手にされない」からなのである。そのようにして、正統派、あるいは少数派は圧殺されていく。その点では当時の「全共闘」は、鉄砲こそ所持しなかったが、ヘルメットと「ゲバ棒」で武装した事は間違いではない。太閤秀吉は「刀狩り」、そして明治に入ってからは、平民の「帯刀」は禁じられた。その歴史を思い起こすと、要するに、市民が武装する権利を奪う事によって各時代の独裁政権は安泰だったのである。しかし、太平洋戦争以降、特に昭和25年以降は、全然異なっている。当時の日本は朝鮮動乱、そしてベトナム戦争へと続く空前の軍需景気の渦中にあった。正しく「好景気」に次ぐ「好景気」の連続であった(参考書は多数ある)。かの「焼け跡・闇市」は、いつのまにやら、急激に「経済大国」そのものへと変貌してしまったのである。国民達にとっては、国家体制を転覆する絶対的な必要性は無くなった。超エリート集団・東大医学部の学生達から始まった、ニュー・モデルの反戦運動は、最後には各派の集団の素人暴力革命路線の「連合赤軍事件」と云う悲しい最後を以て終焉したのだ。これは「権力者」に対しての、組織的抵抗運動が持続した歴史を持たない(例えばフランスのレジスタンス運動、その他)、空しい伝統しか無かった我が国では当然にして陥る悲劇だったのだ。世界史を見回しても、暴力を抜きにして「革命」が行われた史実はない(南米チリのアジェンデ政権の末路がその象徴である)のである。さて「暴力学生」などと嫌われたものらしいが、確かに、実際的な行動は、当時の我が国の世相からは遊離していた、政治理論、運動の蓄積に乏しかった当時の我が国の学生運動家達にとっては、あそこまでが限度であり、惨めに崩壊した。その悲しい最後の姿を見て「自分は、かつての全共闘運動に失望して…」などと名乗り出て、自分を売り出した人物が結構おられるようであるが(最近は珍しくなったが)、その彼ら自身は、その渦中で、一体何をしたのか。つまりは反対派でも無かったし、本当に行動を共にしたとも、当然にして思われない。要するに、傍観者そのものだったのでは無いかと思う。絶望、失望だなんて軽々しく言っては貰いたくない物である。

(6)さらに「その後」
 正式に精神科医への進路に参入すると、これは凄まじく恐ろしい世界であった。自分自身の勉強不足もあったが、当時の諸先輩達の「指導」と云うものは、抄読会は当然の事として、症例検討会も医局で正式に行うものと分析学派と称す先輩達の症例検討会、そして先輩達の指導と云うのは、懇切丁寧と云うよりは「いつも後ろから睨まれている」圧迫感、そのように「優しさ」には乏しい、
「何だァ、これは!」と云うような恐ろしい代物であった。油断(禁忌ではあるが)したら、すぐに医局の症例検討会で散々にこき降ろされる(輩達が、若手を苛めるつもりは無かったのは分かっている)。当時は精神科医の数が少なかった。かと言って、いい加減な初期研修でただちに外部に出すわけには行かない。当時は大学医局に出勤するその毎朝、決闘の場にでも赴くような、凄い空気の中に居たと思う。しかし、そのような雰囲気ではあっても、何か「家族的」な空気がただよっている。これもまた不思議な世界であった。

(7)これからの事
 京都大学の法学者、末川博氏は、かつて、人生を三段階に分けて述べていたように記憶している。人生75年。第一期の「25歳」までは、ひたすら自分の能力を高める事。第二期の「25年間」は、存分に信念を持って社会的な活動に勤しむ事。そして、最後の25年は、「現在」までに至った自分自身を、なんらかの形で、社会に還元する事、そのように述べられておられるように記憶している(これは“ノブレス・オブリッジ”という事なのであろうか)。しかし、現代は「人生90年」である。現在62歳である私は、まだ「第二期」目を終えたという実感が全然湧かない。恩師佐藤時治郎名誉教授(平成13年・文化功労者・勲三等・82歳)からの葉書には「これから、新しい気持ちで、精神病理学の勉強に取り組むつもりです」と書いてあった。あまりにも偉大な人生を送っておられる。ユダヤ教の「タルムード」(ユダヤ教の聖書にあたる)には「学校というところは、勉強をしに来る所ではない。偉大な人物の前に座る所である」と書かれている。あれこれ述べたが、考えようによっては、相手は国際的な大学者そのものなのである。ただの「真似」では像の足跡を辿って歩くのと同じである。ただし、私は私なりの「60歳以降」があってもいいように思った。

(8)臨床医である事は別として
 対社会的には正式に発表はしていないが、私のフロッピーは、各種の分野に渡る膨大な論考が収められている(我流ではあるが)。
 しかし、それらの論考類は、音楽評論であれ、膨大な社会時評の論考であれ、共に失われた世界に所属する。今更、何を言っても社会も我が国の音楽活動も、良い意味では変わらないと思った。それ以上に、むしろ、自滅に近い様相を示し始めている。音楽はかなり「形」が崩れて来ており、コンサートなんかには全然行かなくなってしまった。日本社会そのものも「形」が崩れてしまっており、新聞までをも含めて、ジャーナリズムがあまりにも浅薄になってしまった事に仰天する。そして私は、次第に「ライ麦畑」の住人に近くなって来ている事を感じるのだ。しかし、眼前の膨大な数の患者さん達を切り捨てて「高い塀を巡らして」自己と社会とを切り離した「家」の中に閉じこもる事も出来ない。「ライ麦畑」の作者、サリンジャーは、感性が高過ぎ、鋭すぎたのであろう。ただ、サリンジャーは「版権」を棄てて、かつての高村光太郎のような、ライフ・スタイルを経る事によって、彼自身の人生は完結するのではないかと、そうも思う。失われた「ライ麦」の「少年」の世界は戻らない。しかし、サリンジャー自身は、大人としては成功者そのものなのである。彼の苦悩は、その当たりにあるのではないか。これは下司の勘繰りであろうか。

(9)残されたもの
 発表はしないが、こつこつと書き続ける事は、長い習慣になってしまった。私の両親と兄・姉は、クラシック音楽に馴染んだ人達であり、私の父親などは40歳代に札幌からヴァイオリンを買って来て、教師に就かずにそれなりに「さま」になっていた。その音楽の趣味の事だが、平成12年からチェロを練習し始めた。多忙だったので、1年間だけ、教師に就いた。開業していると、二重奏、その他の室内楽の楽しみの世界も縁が薄い。そこで、ピエール・フルニエの改訂版をもとにバッハの無伴奏チェロ組曲に取り組む事になった。
 幸いにして、ミッシャ・マイスキーの実演のDVDがあるので、運指、ボーイングには大変な参考になった。さて、先日、9月17日、ヤマハでカーボン製の弓を展示すると云うので、出かけた。自分なりに細々とドヴォルザークのチェロ協奏曲の第一楽章の130小節あたりをやっていたら、そこに、何と、チェコスロヴァキアのチェロ奏者が居たのである。多少は迷ったが、私は思い切って、私の楽器で、ドヴォルザークのチェロ協奏曲の第一楽章の「ソロ実演」を“たった一人の聴衆”として、眼前で弾いて聴かせて頂いたのである。素人の私は永遠にこのような機会に恵まれる事はあり得ない、素晴らしい体験であった。とすれば、私の現在の楽器でも、習練を続けるならば、あの素晴らしい音を出せる可能性が出て来たとすら思った。目標は高い方がいい。当然にして、私がバッハの無伴奏組曲のあちこちを弾き損ねても、弾き殺される人もあるまい。さすがに(私は楽器は2台所有しているが、運んで歩くのが大変だからである。無論、2台ともにそろって「同じ値段」ではあり得ないのは当然の話)思い切って乗用車を手放しただけの価値のある、素晴らしい名器である。現実には私自身が弾くと、あまり良い音に聞こえないのは無念であるが、先日、生で聴いた自分の楽器の音色の深さ、輝かしい響き、そして、男性の奏者のみが引き出せる素晴らしい豪快さは、私にとって凄まじい励みになった。

(10)新しい時代・新しい生き方
 人生90年。かつて、このような社会を迎えた事は無かった。「老後」が「30年」も続くと云う事態に、多くの人々は耐えられるであろうか。多弁を弄したが、とにかく、私は、さらに工夫に工夫を重ねて、人生の煉瓦を“バベルの塔”になってでも積み上げて行くつもりである。さて、今回は久しぶりの投稿で、あまりにも長過ぎた。これでは今後は投稿を依頼される事も無いであろうし、私自身も、この原稿を以て、今後は、長期間にわたる「沈黙」を守り続ける事にしている。
 さて、個人開業医には歓迎会は無い。送別会もない。となると、残っているのは、自分自身の「告別式」だけである。この文章は一種の「生前葬」のような物だと観念した。
 付き合って頂き、心から感謝致します。

 
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