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<ペンリレー>

発行日2005/12/10
池田小児科医院  池田和子
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昔が今
 
 秋田県内を長年撮影に歩いていて気になったのは、菅江真澄の案内板が目につく事でした。最初は余り気にもとめないでいたが、或る日秋田さきがけの文化欄に菅江真澄研究会員が二日間にわたって菅江真澄についての記事を載せていた。この記事を読んで菅江真澄の人となりに急に興味が募り本を探してみた。“菅江真澄入門”秋田魁新報社発行編集、著者は菅江真澄研究会理事の田口昌樹氏でした。早速入手し読んでみた。以下真澄と書かせていただくことにする。
 入門による真澄を紹介してみると、江戸時代後期の紀行家である。三十才で故郷三河を旅立ち七十六才で秋田仙北の地で亡くなるまで四十六年間を旅に暮らした。その間百三十種、二百四十冊もの著書を残した。
 真澄の著作は対象を客観的にとらえたものとして、江戸時代後期の庶民生活を知る上で貴重な資料となっている。日記・地誌・図絵集などには彩色された美しい絵が添えられており、読む人に感動を与えている。
 「菅江真澄遊覧紀」と呼ばれる所以である。真澄は生前に日記や図絵集を秋田藩々校明徳館に献納し、その後に編纂した地誌も没後に献納している。
 真澄は秋田に四半世紀余りも滞在し、当時の自然と人びとの営みを記録した。その資料や記録を集積し、真澄研究の拠点とするために秋田県立博物館に“菅江真澄研究センター”がある。秋田に滞在するようになったのは、文化四(一八〇七)年三月、岩館(八森町)に滞在中の真澄は、二十二日には能代にむかい、二十八日には手這坂(峰浜村)を訪れた。私が今興味をもって“昔が今”を撮影しているのは峰浜村の手這坂です。
 手這坂を訪れた時の日記「おからの滝」には次のように記している。
 桃の盛と聞て、しばしゆけば手這坂といふ。家四・五、河くまの桃の花園にかくろひてぞありける。此坂の上に立て見やるに、まことや流にさかのぼりて、洞のうちのかくれ里をもとめたりしもかくやありなましと、しらぬもろこしのいにしへをたどる。こゝに誰れ世々さく桃にかくろひておくゆかしげに栖るひと村云々。何となく真澄の気持ちが伝わってくる日記のひと節だった。
 真澄は手這坂の図絵を書いて、坂の下に桃の木に囲まれた四軒の萱葺き屋根の集落を描いている。著者が二十数年ほど前の春、集落を訪れた時には庭に桃の花が咲いていた萱葺き屋根の家が五戸と現代風の家が一戸あり、住民の方々が楽しく暮らしているように思えた。まさしく「真澄の風景」そのままの姿であった。と書いている。
 平成十三年五月、秋田魁新報社能代支局より著者あてに電話があり、手這坂の集落が萱葺きの家四戸を残して、一年前から無人にってしまったこと、従って家が崩壊の危機あること、村当局では村おこしと結びつけた保存策が模索中であることなどが伝えられた。真澄が記録した家が集落単位で残っているのは手這坂だけではないかということを確認する電話があった。
 平成十三年になって手這坂の再建のため、手這坂活用研究会の主催で村内唯一のかやぶき職人の指導でやねふき作業がはじまった。研究会の当面の目標は、地主、家主の了解のもとボランティア活動により、①萱葺き民家の保存をはかる。②風景の保存をはかり、桃の果樹を植林する。③休耕田や畠を使っての米作りや農作業体験。④かやぶき民家を「ふるさとの家」として休養、交流の場とする。などであった。
 以上の目標は沢山のボランティアの人達の活動、努力によって進められた。
 私がこの峰浜村の“桃源郷”手這坂を訪れたのは平成十六年の春、桃の満開の時期でした。その前に秋田県立博物館の「菅江真澄資料センター」で充分知識を得てから訪れた。
 “昔が今”と思ったのは、手這坂活用研究会の目標が殆ど完成され、真澄が二百年前の峰浜村の人々の生活を細かに観察し、文と図絵に残してくれたように再建されていた。真澄は手這坂のほかの沢山の場所の文、図絵を残しているが、私は桃源郷に魁かれて訪れた手這坂で真澄が表現した昔の手這坂を気持ちは二百年前にさかのぼって撮影してみた。この連作は写真展の節に展示したいと思っている。
 今年の九月には国際教養大学の学生たちが夏休みを利用して屋根の外壁の補修ボランティアとして十日間泊まりこみで汗を流した。との秋田さきがけの記事であった。
 私は沢山のボランティアの皆様に心から感謝し、お疲れ様と申し上げてペンリレーを終りたいと思います。
 次回は女子医専先輩の岩渕和子先生にバトンをお渡しします。
 
 ペンリレー <昔が今> から