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<ペンリレー>

発行日2005/08/10
藤盛レィディーズクリニック  藤盛亮寿
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GIPSYとの出会いから
 
 最初にジプシーを見かけたのは25年も前、ヨーロッパ7力国を巡る旅の最初の訪問地、フランクフルトだった。朝、緑鮮やかな芝で覆われたマイン川の川べりを散歩中、テントを張り、木々の間にわたしたロープに洗濯物を干している数家族を見て、自然の中でのジプシーの移動生活の一端を目の当たりにした思いがした。
 当時、「海外旅行は生涯に恐らく一回」と思っていたが、ここ10数年は、毎年家族(殆どが妻との弥次喜多道中)で個人旅行に出かけるのを、何よりのリフレッシュの機会としてきた。当然、予期せぬトラブルに遭遇する。言葉の違いを超えて交渉を要することは、すべて妻に任せてきたし、今まで屈したことはない。
 しかし、ジプシーとのトラブルは、いずれも一瞬の隙を縫ってのことであり、私がターゲットだった。最初は、9年前イタリアのミラノでのこと。メーデー帰りの人たちで混雑する雨上がりの歩道の雑踏の中を、そぞろ歩いている時だった。「子どものジプシーが多く見受けられるから注意するように」と言われていたことが、まさかわが身にふりかかろうとは。突然6・7人の子どもたちが私を取り囲んだのである。手には筒型に丸めた新聞紙を持ち、四方八方から私に飛び掛ろうとしている。通行人は大勢いるが誰も見向きもしない。彼らを操っている大人がいるはずだが見当たらない。折りよく持っていた折りたたみ傘を時代劇の侍よろしく構えて振り回した。一時、彼らはひるむもののまた向かってくる。繰り返している間に一瞬スペースができたのを見て飛び出した。20m程追いかけて来たが何とか逃げ切った。
 もう一件は2年前の夏、14~16世紀にかけてポーランドの首都であったクラクフでのこと。中世の町並みをカメラとビデオにおさめながら、ヴァヴェル城に通じる裏通りを歩いていた時だった。横断歩道の手前まで来た時、私の倍以上ある体の女性がドーンとぶつかって来た。くるぶしまでのスカートに、体に長いショールを巻いたジプシーの女性だった。詫びる表情をするわけでもなく、素知らぬ顔で隣の金髪女性と何やら話している。そういえばさっきまで我々の先を歩いていた2人だ。とっさに自分のバックの中に手を入れた。ビデオがない。もしかしたら彼女のショールの中の手にあるのではないかと思ったが、間違えたら大変なことになる。思わず「カメラが無い」と大声を出し、妻とともに大げさに彼女のまわりを何度も見回したが無い。信号待ちすること、1、2分。もう一度下を見ると、彼女の足元にビデオカメラが落ちているではないか。「まずい」と思ってショールの下で、そっと足元に降ろしたらしい。帰国してビデオの映像を見ると彼女たちが写っていた。地元の女性が遠来の訪問客を案内しながら、我々同様写真を撮っている風だったが、客観的に見ると、いかにも不自然な行動であった。だいぶ前から私をマークしていたらしい。どちらの件も大事に至らなかったのが幸いであるが、旅先での苦い思い出である。
 帰国後、「’多くを持っている人からはたくさん貰う、少ししか持っていない人からは少しだけ貰う。’というのが、彼らの信条で、貧しい自分たちが物を貰うのは当然と考えている。そのため、物を搾取することもある。」という一文に出会った時、我々の規範とは対局にあるにもかかわらず、彼らの行動パターンを裏付ける説明として、妙に納得してしまったから不思議なものである。
 容貌がエジプト人に間違われたことから、「Egyptから来た者たち」という呼び名がついたといわれるGipsyは、6~7世紀にインド北西部から移動を開始し、14世紀には東部ヨーロッパやバルカン半島に移り、今日ではアフリカの一部・東南アジア・中国・日本を除き全世界に存在し、総人口は800万人以上と推定されている。
 移動生活のため住所不定で、ヨーロッパ文化に同化せずに暮らして来た、マイノリティであるジプシー民族は、長い間、差別・弾圧・迫害を受けてきた悲しみの歴史を持っている。クラクフの近郊オシフィエンチム(ドイツ語名アウシュビッヅ)で、ユダヤ人が大量虐殺されたことは有名であるが、50万人ものジプシーの人々も虐殺されたことはあまり知られていない。
 ある日、テレビでジプシー一家の密着取材番組を見た。深い悲しみの歴史を背負いながらも、明るく楽天的に大自然の中で逞しく暮らすジプシーの生きざまは、人間を優位に捉え自然を破壊してきた我々に、警鐘を鳴らしているように思われた。
 日赤時代8ヶ月の産婦人科研修を手伝ったハンガリー人ドクターの病院が、母国に招待してくれた際、案内してくれたバラトン湖で、偶然耳にしたジプシーのチターの音色は、甘く切なく哀愁を帯びたものだった。ドクター一家のおおらかで温かいもてなしの心と共に、あの風景が思い出される。
 旅先での異文化との出会いは、どんな形で飛び込んでくるのか予測できない。人々の価値観は民族の歴史の中で、長い年月を経て培われていくものであることを思う時、ステレオタイプのイメージに基づく偏見で、異なる人々を判断することの諫めを再認識させられる。
 短い時間ながら日常から離れた世界に身を置くことで、次のエネルギーが沸いてくるのを実感できるうちは、「何とか仕事も続けられるのかな」と考えるこの頃である。

 
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