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<ペンリレー>

発行日2005/06/10
一戸医院  一戸  忠
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大先輩
 
 ペンリレーを秋元辰二先生から頂戴いたしました。私は弘前大學医学部槙外科教室に入局したのは昭和27年でした。
 世間知らずの、軍国少年の教育を受けた融通の利かない男でした。お前みたいのが海兵に行ったから、日本が戦争に負けたんだと言う友人もいましたが、私は25歳まで生きられるかどうかの命でしたから負けてよかったと思っていました。其の当時、秋元辰二先生は教室ではバリバリの医局長でした。
 今でも当時のことは、はっきり覚えています。医局長室で、私は不動の姿勢で、両手をズボンの折り目にピタッとあわせ、緊張しながら軍隊式にお辞儀をして「入局した一戸でございます、よろしくお願いいたします」
 先生は眉間にチョット皺を寄せ額に青筋をたてて「医局に入ったら、学生気分を捨てて研究、学問に身をいれなければならん」と発破をかけられ本当にコワーイ先生でした。
 昭和39年、私が秋田市新屋町に開業することになり、ご挨拶に伺ったところ、先生は以前と違って温厚、柔和な、お顔で「開業も大変だナア 先ず 頑張れヤ」と励ましてくださいました。当時は先生宅で囲碁好きの医師、友人達が、数人集まって月1回の勉強会が開かれていました。私の棋力は4級位でしたが、地方棋士の天立正通先生を楢山から送迎してくれないかといわれ、初めて買ったフォルクスワーゲンのカブト虫でガタガタと何年か送り迎えをしていました。しばらくして、帰り際に天立先生に恐る恐る初段を欲しいと申したところ、後日、わざわざ自宅まで免状を届けてくださり、いきなり2段でした。「他人にはあまり言わないでナ」と念をおされました。棋力がなかったのでしょう。これが今でも烏鷺の戦いを楽しむキッカケとなりました。
 その昔、今は取り壊された秋田ニューグランドホテルの裏手に、滅多に泊まり客の見られないみゆき旅館がありました。
 ある日、秋元先生にいきなり自分の代わりに、行くようにと言われ、みゆき旅館に行くと医師、歯科医師、のグループで「医天会」という毎月1回麻雀大会をやっていたのでした。欠席のときは必ず代理人を出すという強い掟があるのだそうで、その代役のお蔭で初めて前多豊吉先生にお目にかかりました。その後、市立秋田総合病院長の頃、川反の銀なべ、あきたくらぶ、などで片岡紀夫先生、故岩渕正喜先生達とツモるチャンスにめぐまれました。勿論、いつも私はカモにされていましたが、それでも楽しいことがいっぱいありました。前多先生の馨咳に接し得たのは幸いでした。人生訓も教わりました。いろいろ相談にものっても頂きました。秋田は初めての土地だったので不案内でしたが、秋元先生と行きつけの川反の今はなくなった ’バーうるわし’や大町、山王、土崎と、お伴をさせられアルコールも益々腕があがりました。
 ゴルフは50歳で始めました。これは先生が秋田カントリークラブのできて直ぐからのメンバーで亡くなられた高木一郎先生、湊貞造先生らと共にA.D.Cに入会させて頂き、昼はコンペ、夜は ’バーうるわし’での表彰式と反省会は楽しかったものです。
 正月の連休を利用しての香港、マカオを秋元先生と二人で旅行して、カジノでは損はしたけれども楽しい旅でした。昨年9月には豪華客船、飛鳥で金沢、能登半島に行き船上で揺られながらの一局は楽しい思い出でした。
 何時も先生と一緒なので、秋山まり子先生に金魚のウンチみたいだと笑われていましたが、総ての面でお世話になっている大先輩秋元辰二先生。ことし4月1日、お元気に傘寿を迎えられおめでとうございました。今後とも宜しくご指導の程、御願い申しあげます。
 次回のペンリレーは益々活躍中の新屋班長の秋山まり子先生に御願いいたします。

 
 ペンリレー <大先輩> から