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<ペンリレー>

発行日2004/12/10
内山医院  内山忠司
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私の玄米食
 
 どの様なきっかけで私が玄米を食べるようになったのか、今考えてもよく分からないが、食べはじめてから20年以上も食べ続けている。よくも飽きないで食べ続けたと吾ながら感心しているが、今では私にとって欠かすことが出来ない主食になってしまった。そもそも幼い頃から私の偏食はかなり強かった。これは親ゆずりで代々受継がれている。この偏食を一つ一つ克服するには長年かかったが、その努力は私にとって重要な歴史である。今ではほぼ完全に偏食から抜け出したが、玄米に対する挑戦もその線上にあった様な気がする。玄米食と云えば二木譲三博士が有名である。二木先生は玄米食の強力な奨励者であり、先生の提案した「保健学」の中の「食養法」で玄米食のようなすぐれた食物はないと強調されている。私は昭和32年から39年まで小泉病院に勤務していた。
その間毎年夏になると二木先生がお見えになり、4~5日間逗留していかれた。先生は小泉重憲先生の恩師であった関係で、秋田に墓参りに来る度に小泉家に来ることを楽しみにしていた。所が二木先生が見えられると重憲先生は途端に玄米食を食べはじめるのである。その様子は、どうしても玄米を無理して食べている様にしか見えなかった。二木先生が帰られると、直ちに白米に変わり、やはり白い御飯は美味しいね。とホッとした顔になった。私はその時玄米を頂く機会がなかったが、玄米というのはそんなものかと、私にとっては全く無縁の食物のように思っていたという印象がある。然しそれから数十年たって私が玄米食にとりつかれた事は、何処かでこの事と結びつく縁があったのかも知れない。玄米を食べはじめてから20数年がたち、今では何の抵抗もなく食べているが、最初から美味しかったわけではない。最初に圧力釜を使ったが、それを上手に使いこなすことがむずかしく、水加減、火加減によってはその都度御飯の出来方が違い、美味しく炊けるのは何回かに一度であった。それに食べ残った半分は翌日冷凍庫から取出し暖めて食べるのだが、これはお世辞にも美味しいとは云えなかった。そんな時よく噛まないとのどに落ちていかない。そのうち自然によく噛む習慣が身について来た。噛んでいるうちに玄米の甘みが口に残る。その甘みが又格別である。白米ではいくら噛んでも、この様な奥深い味は出ない。次第に玄米の魅力にとりつかれて来た。そうなればもう玄米は自分のものである。この玄米と相性が良いのが沢庵である。一緒に食べると塩分が甘さを一層ひき立て、将に絶妙な味が口に拡がる。但しこの様な美味しい味を引き出す沢庵は今は殆どお目にかからない。そんな時生前母が漬けた沢庵の味をふと思い出す。何とかもっと簡単にそして美味しく食べる方法がないだろうかと思っている矢先に出会ったのが発芽玄米である。或通販のカタログにマイコン発芽器というのが目にとまった。玄米をごく僅か発芽させることだけで、味も食味も劇的に改善され、栄養価も飛躍的にアップすると云う説明である。早速私はそれにとびついた。器械に玄米と適量の水をいれ、一定の温度に保たれている。約20時間たっと玄米は水分を吸って、ふっくらとした玄米に変わってしまう。それが発芽玄米である。いはば玄米が目をさまし活動しはじめた状態である。こうなれば普通の炊飯器で炊ける。もう圧力釜はいらない。出来上がった御飯は今迄の玄米御飯とは全く違った食感である。そして、はるかに美味しい。これなら誰でも抵抗なく食べられる。ようやく私の希望がかなえられた。今まで誰一人私の玄米食に関心を示さなかった家族から一人参加して一緒に食べる様になった。その後は毎日発芽玄米による美味しい御飯を食べ続けているが、これはもう一生やめられない。偏食もそれを克服した時の喜びはその人でなければ味わえない。玄米も食べはじめてから色々な経験をして、ようやく本当に美味しい玄米食に出会うことが出来た。玄米食は健康に良いと云われるが、果して私の健康にどれだけ貢献したか確かに今の所私は健康に恵まれている。これからも玄米食を健康のために続けると云うよりも、むしろ玄米食を何時までも美味しく食べられる様に健康を続けたいと思っている。


 
 ペンリレー <私の玄米食> から