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<ペンリレー>

発行日2004/10/10
鈴木内科胃腸科医院  鈴木俊夫
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開業してから感じた事
 
 4月から開業医としてスタートした私ですが、はや半年が過ぎようとしています。勤務医時代と異なった様々な業務に少し慣れ、周囲が僅かですが見えてきた様に思います。
 さて今回はどんな事を述べようかと考えました。
 開業医としての抱負。これからの医療の在り方。この厳しい時代、逆風にどう立ち向かうか。そういったことも主題として考えましたが私の意見はいずれもまだ幼稚で述べるに値しません。
 そこで開業してから感じた事を書くこととしました。
 私は歴史物が好きで、その方面のテレビや本を良く見ます。昨年NHKの番組で伊達政宗、毛利輝元らがどうやって徳川時代初期を切り抜け藩の礎を築いたのかを放送していました。
 毛利は名目上ですが関ヶ原の戦いで西軍の総大将でした。徳川家からは仮想敵国扱いで潰されないため必死でした。関ヶ原の戦い以降経済的に困難になり離反する家臣が続出し、家そのものが成立しなくなるところでした。残った君臣の必死の経済政策が実を結び、ようやく家を存続させることが出来たのです。大阪夏の陣を見事に務めあげ、家康からねぎらいの言葉をかけられています。
 伊達家は関ヶ原の戦いでは徳川方でした。しかしその際の行動(直接敵対した会津の上杉氏の領土を勝手に私領化しようとしたこと)に疑いを持たれたことや政宗自身天下に野望を抱いている様に思われ、徳川家からは警戒の目で見られていました。家康が危篤状態の時、彼は仙台から駿府まで駆け付け、臨終間際の家康に面会します。我が子秀忠を頼む。政宗に向けられた家康の言葉でした。尤も家康自身、かつて秀吉が臨終の席で我が子秀頼を頼むと言ったのにそれを簡単に裏切っていますから内心ではどう思っていたかわかりません。しかし政宗にとってこの言葉は家康の信任を表すものであり伊達家の未来を明るくするものだったのです。
 後世の私達は毛利家や伊達家が警戒され、非常に苦しい思いをしながらも乗り切った事実を知っています。しかし答えの見えないその時代を生きた人達の不安、苦しみ、必死の努力は私達の想像以上でしょう。
 開業医になってから私も何か一つやるたびにうまく行くか?この決断が吉と出るのか、凶と出るのか?いろいろ考えてしまいます。そのたびにあの毛利輝元や伊達政宗のことを思い出してしまいます。来年の今頃どんな顔をしているのかと考えますが想像もつきません。
 今様々な古くからの価値観や権威が崩れ、かつてない厳しい時代に我々は身を置いていると言われています。
 毎日起こることに精一杯対処しつつ、自分の職責を果たしていこうと考えています。ずっと後の時代に笑顔で今日を振り返ることができるために。


 
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