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<ペンリレー>

発行日2004/05/10
加藤悌産婦人科医院   加藤悌三
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医師の一言”もう医者になれない”
 
 もう医者になれないの言葉は、私が17才の高校三年の春に、医師から聞かされた一言である。今から50年も前のこととなる。
 私は、札幌より旭川へ向う途中の街、岩見沢(いわみさわ)市の高校へ通学していた。岩見沢市は、国鉄、函館本線と室蘭本線の合流点の街で、当時エネルギーの主体であるため多くの住民で賑わった炭鉱地帯への支線も数本出ている交通の要地であり、又石狩平野の水田地帯が四方に広がってもおり、商業の中心地でもあった。自宅より学校までは徒歩で約15分位の距離であり、朝寝坊の私は遅刻せぬように、いつも急いで歩かねばならなかった。それが三年生に進んだ頃から自分では急いで足を運んでいるつもりながらだんだんと人より遅れる速さとなり、学校に着いた時には、息切れ、動悸と疲労、倦怠で机に倒れ込む体調となってしまった。地元の医院で二・三回は受診したのであるが、どんな診断であったかは記憶にない。人に薦められたのではなかったが、北大医学部の内科を受診することとした。受診時最初には、実習で誰れもが経験した如く、医学部学生4~5人のグループによる問診と診察であった。その学生のグループの中には、私の親友の兄の顔も見られた。やたら胸部の聴診をされた憶えがある。その後に、教授らしき医師の診察を受け、聴診の他に胸部X線撮影、血液検査と特殊な検査種目はなかった筈である。診察後ムンテラの医師と向い合った。医師は、私の年令より考えて受験勉強期と判断したのであろうか、私に最初に言われた言葉が、前記のもう医者になれないの一言であった。読んだり、考えたり、頭を使ってはいけない、黙って安静にすること。が続いた言葉である。学校は休学すること、診断は僧帽弁閉鎖不全症であった。岩見沢より札幌までは普通列車で一時間余を要した。列車での通院であったが、混んで立っていなければならぬ時などは、15分を過ぎると、列車の揺れもあるが体がふらふらして寄りかかり耐えるよりない。他の人から見ると顔面蒼白に見えたのであろう。声をかけられ席を譲られる状態であった。高校生の私には、もう医者になれない、と言う真の意味は、当時は理解することは出来なかった。後に私も身をもって知らされることであるが、要するに医者は重労働であるから、弁膜症の体では医者の仕事は無理だと言うことであったろう。勿論その時の私には医者が重労働とは思っていなかった。私は医師の言う事は、正しいと信じていたので頭を使うな、の言葉は、生来の怠け者の私にとって幸なことであり、本当に頭を便うと病気は治らないと信じたのである。その後は勉強を放棄して、ブラブラ寝ている毎日となった。特に疼痛もなく楽な療養生活であった。そんな療養がとても効果があったのであろう。自分が考えていたより、順調に回復し、夏休み明けには復学することが出来た。
 学校へ出て驚かされた。休学前に私と勉強を競っていた友人達とは顕著な学力の差が生じていたのである。考えてみるまでもなく、もっともなことである。休んでいた者と、続けていた者である。私は慌てたが、もうどうにもならない。充実した勉学とならず、やけになったのであろう。友人達と同じ大学への受験は回避した。勿論、その年の受験は失敗であった。次の年は浪人生活である。当時、私の所より津軽海峡を渡って本州の大学へ進むことは、郷関を出づの心境で大変な決心であったし、私には既に両親がいなかったのである。いつまでもゆっくりしていられず、兄を頼って10月より京都の予備校に行くことにした。ここで井の中の蛙は、世の中には多数の優秀な人がいることをこの時痛烈に知らされた。私の受験時代は理・工学部系が人気があったと思う。私も工学部志望であった。しかし頭の隅に、医者になれないの言葉が引掛って離れなかったのであろう。今でも医者になろうと?いている夢を見る。医師になって40年が経った。私の知識不足と誤診による言葉、と別に私が患者さんへ発した言葉、一言が、その人を悩まし、その人を疵付け、失望させたことが多くあったであろう。その結果、私は多数の患者さんを失っていることであろう。自分が知らないでいるだけである。私の机の前には「信頼を得られるか、失うかは初診のたった一回しかチャンスはありません。本当に初診は大事です。」と書かれたメモが貼ってある。患者さんへの一言には充分に注意したいと考えている。聞いた人が納得し、喜びと希望を持てる優しい言葉を発したいといつも願っている。

 
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