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<ペンリレー>

発行日2004/04/10
落合整形外科医院  落合 泰
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私と青函連絡船
 
 昭和63年3月13日、青函トンネルが開通した夕方、函館から羊蹄丸(2代目)、青森から八甲田丸が出港し、明治41年比羅夫丸(1480トン)と田村丸(1480トン)で始まった鉄道青函連絡船最後の船となってしまった。
 函館出身で昭和22年から昭和29年まで弘前の旧制高校、仙台の大学へと入学した私にとって、当時の北海道住人同様、青函連絡船は内地への唯一の交通手段であり、休みの度に往復していたので、この間、年に12回は利用していたことになる。
 青函連絡船が米軍艦載機の攻撃目標となったのは、終戦の直前、昭和20年7月14と15の両日である。この結果、戦前の客船(正式には客載車両渡船)翔鳳丸3460トン並びに同型の津軽丸(初代)、飛鸞丸は沈没、松前丸(初代)は大破炎上し、使用できる船は1隻も残らなかった。
 したがって、戦後初の客載車両渡船、洞爺丸(3898トン)が就航するまでは、関釜航路の景福丸や樺太航路の宗谷丸などが臨時に就航していたが、終戦後人々が押し寄せて輸送力は不足し、桟橋待合い室は常に人が溢れ、船待ちの長い列が続いていた。青函航路を監督していたのは進駐軍函館停車場司令部である。
 当時は乗船名簿を受け取り、番号順に並び、DDTの散布を受け、手に散布済みの印を押されて漸く乗船可能となった。
 乗船しても、狭い船室にすし詰めにされ、出港時は座ったまま脚も伸ばせない状態であったが、揺れが強くなると、いつの間にか皆折り重なって横になっていた。
 その後、洞爺丸と同型の羊蹄丸、摩周丸、大雪丸が就航したことにより、畳敷きの3等雑居室は多少余裕もできたが、相変わらずの混雑は続いていて、希望の船に乗れず、知人のつてで一般客とは別の小さな船室に乗せてもらったこともあった。
 昭和26年5月には朝鮮戦争で敷設された機雷が津軽海峡に流れてきて、2年間、旅客便の夜聞運航が中止となったが、この間は不安を抱えての乗船が続いた。
 昭和29年9月26日、洞爺丸が子供の頃海水浴をしていた七重浜沖600メートルの地点で座礁横転、沈没し、1155名が死亡する大惨事となったが、この時は福島県白河の病院でインターンをしていた。洞爺丸沈没に至るまでの詳細な記録を読むと、その悲惨さを実感し亡くなった方々の無念が思われ心が痛む。
 その後、洞爺丸型の連絡船は弱点となっていた船尾の貨車積み込み口に水密扉を設け、ボイラー燃料は石炭から重油に変更されたが、就航は海峡の時化に極めて慎重になり、出航して函館山を過ぎた辺りから引き返し家に戻ったこともあった。
 昭和30年以降は年に1回程度、帰省での利用となるが、高度経済成長の時代を迎え、津軽海峡を渡る人も貨物も増加していく。
 当時の青函連絡船は、洞爺丸の代船十和田丸と羊蹄丸、摩周丸、大雪丸であるが、高速特急列車の運行が開始されると、連絡船が到着する度に、座席を確保しようとする人々が桟橋通路を我先にと走る状態が続いていた。
 青函連絡船が大型高速化したのは2代目津軽丸(5319トン)が就航した昭和39年からである。以後順次この型の連絡船が就航し、所要時間は3時問50分に短縮される。
 船室は前部にグリーン寝台、指定椅子席、売店を挟み後部左にグリーン桟敷自由席、右に椅子自由席となり、階段を下りると、右に食堂、左に売店、後部右に普通桟敷席、左に椅子席となっていた。
 この頃は専らグリーン指定席を利用していたが、子供連れで家族5人の時は日中でも寝台を利用した。寝台は個室の入り口付近にソファーとテーブルがあり、その奥の向かい合わせに2段ベットがあった。
 昭和40年代後半になると、道路網や航空網の整備につれて国鉄の貨物、旅客輸送のシェアは徐々に低下し、次第に青森、函館桟橋待合室も閑散となっていく。
 昭和62年8月青森駅で下車、桟橋待合室への階段を上ると、まるで終戦直後のように人が溢れていて驚いた。青函連絡船の廃止を惜しみ、もう一度乗船しようとする人々であり、乗船名簿の番号順に並んでいた。一瞬、乗船できるかと不安におそわれたが幸い往復ともグリーン指定席を取っていたので直ぐに乗船可能と知ってほっとしたことが今でも忘れられない。
 連絡船廃止後はトンネルを通っての故郷になったが、連絡船が函館山に近づき函館湾内に入っていく時のような懐かしい心情は無くなってしまった。
 次回は遠山卓郎先生にお願いします。
 
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