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<ペンリレー>

発行日2004/03/10
秋田緑ヶ丘病院  齊藤 靖
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スロー・ホビ一
 
 「プラモデル」が日本で産声をあげたのは1958年(昭和33年)のことである。この「プラモデル」という耳慣れた、如何にも外来語然とした単語は造語であり、国産第一号を開発したマルサン商店によるものである。語源となった「プラスチック・モデル」が発祥したのは、1936年、大戦直前の英国においてであった。「プラスチック・モデル」が輸入され始めた昭和30年頃、日本と英米との20年近い隔たりによる品質の差は然としており、当時の日本の一産業に与えた波紋は相当なものであった。現在では世界品質を誇っているタミヤ模型の現社長は、昭和33年当時はタミヤ模型の前身である田宮商事で木製模型の製造に携わっていた。しかし、その年に手にした米国製「プラスチック・モデル」の精巧さに呆然自失とし、せっかく大量生産の軌道に乗せた木製模型に見切りをつけ、翌年にはプラモデルの開発・製造に転換することを余儀なくされたという。
 30歳代以上の男性ならば、学童期には貴重な玩具として「プラモデル」を一度は手にしたことがあると思う。お年玉をもらうと、吹雪だろうが大雪だろうが駄菓子屋に直行し、「プラモデル」を手にしていた。しかし、近年は模型店やデパートの「プラモデル」コーナーをのぞいて見ても、そこでキットを物色しているのは大半がいい年をしたオトナである。近くには子供がいたとしても、どうもオヤジのだしに使われているふしがある。
 最近の子供は、TVあるいはPCゲームや、出来合いのスーパーヒーローものフィギュアなど、ほとんど手間のかからない、「ファースト・トイ」で遊ぶことが多く、「プラモデル」の箱なんぞには眼もくれない。「プラモデル」を作ることは対極に位置し、「スロー・トイ」である。しかも、その組み立て~完成に至るには忍耐力・集中力・理解力・創造力(この四つを「プラモカ」と勝手に呼ぶこととする)が要求されるのである。小さい頃は、上手く完成できずに癇癪を起こした経験は誰にでもあると思うが、それでも完成した時の嬉しさが忘れられずに、「プラモデル」に親しんでいた。その結果、個人差はあれ、「プラモカ」が身に付き、ひいては物事を簡単に投げ出さずに取り組もうとする姿勢が知らず知らずのうちに獲得されていった、のであろうと思う。
 最近の子供が簡単に「キレル」のも、「プラモカ」を養成する役割が乏しい類の遊びに埋没しいるのと無関係ではないだろう。などと思って模型専門誌の頁を繰っていると、「小学校でプラモデルが授業に登場」という記事が眼に飛び込んできた。男女の区別なくこの授業に参加している生徒の表情は、真剣、困惑、歓喜など実に様々であった。
 数年前から「プラモデル」作りを数十年振りに再開した。不惑年のせいか、だいぶじっくりと完成を急がずに製作できるようになった。「スロー・トイ」は「スロー・ホビー」に昇華した。その姿と押入に山積しているキットを見て、「大きくなったらこれを作りたい!」などと年中組の豚児が話すようになったのを、嬉しく聴いていた。いつもは「スーパー戦隊」や「仮面ライダーシリーズ」の戦いごっこで遊ぶのがほとんどなので、ジッと座って何かに集中しろと期待するほうが無理かな、とは思いつつ、試しに100円の飛行機のキットを一緒に作ってみた。やはり「(部品が)はまらない!」と言って投げ出しそうになったが、国籍マークのシールを貼る時は国名を教えたり、「ガンダム・マーカー」で好きな色を塗らせたりと策を労して何とか完成させた。翌日にはその完成品を「メカゴジラ」のフィギュアと一緒に遊び始めていたのを見て、心なしかホッとしたのであった。現在ある「箪笥の肥」は生涯をかけても全て完成する見込みは全くないのだが、きっと世代交代した暁には日の目を見るものと期待している。
 
 ペンリレー <スロー・ホビ一> から