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<ペンリレー>

発行日2004/02/10
   黒川一男
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長崎キリシタン断想
 
 研究者の指摘では、キリシタン類族の七割が九州に集中している浜名志松さんという熱心な研究家が「九州キリシタン風土記」という大著を刊行されている。文字通り蝨つぶしに膨大な史蹟を実地検分された労作である。長崎の史蹟が群を抜いて多くビックリさせられた。かって私は「東北六県のキリシタン史蹟探訪記」をまとめたことがある。それだけに九州わけても長崎の史蹟を見学したいものだと考えていた。昨春やっと念願がかなって長崎訪問が実現できた。ただ与えられた日はわずかに二日しかない。考え抜いた末、大村・島原・長崎三市の史蹟に絞り込んで駆け足見学をすることに決めた。強い印象を受けた史蹟について感想を述べてみたい。

1 大村市 放虎原というかっての処刑場に建てられていた「日本二〇五福者殉教顕彰碑に心打たれた。十六年間にわたって執拗にキリシタンを追い詰め、各地から拿捕した信者を殺害したのだという。説明文を読んで涙した。大村純忠公の庇護のもと、六万人の領民がキリシタン王国を謳歌した楽園は一挙に崩壊してしまったのである。福者とは「殉教者について厳密な調査をして神が奇跡をもって証明した者」である。ローマ法王庁の格段の配慮に信者たちは随喜の涙を流したことであろう。

1 島原市 本光寺(松平家の菩提寺)境内にあった「首なし地蔵」のグロテスクな列に絶句させられた。これはかの「島原の乱」で大弾圧を受けたキリシタン農民が、大挙して寺を襲撃し腹いせに地蔵の首をたたき割ったというのだ。
 幕府の厳命によって「寺請証文」「類族改め」という制度が寺や床屋に課せられた。このあぶりだしによってキリシタンは潰滅に追い込まれたのである。
 怨念!なんというすさまじいものだろう。悲しいものである。

1 長崎市 なんといっても西坂公園にある「日本二十六聖人殉教碑」と記念資料館が強烈な印象を与える史蹟である。碑の左側にある広大な壁に聖人全身像が並んでいた。(写真)二人の子供像がいじらしい。ルイス・フロイスの記録に、アントニオ少年、ルドビコ茨木少年と記されている。
 この記録は結城了悟師(スペイン籍から帰化・記念館長)によって「二十六聖人と長崎物語」という本に纏められている。
 記念館で幸運にも師に面会することができた。有り難いお言葉を戴き感激した。
 二階の「栄光の間」(殉教者の聖骨を納めている部屋)で黙祷させてもらった。
 玄関前の壁に「詩編63-2・旅」というタイトルの短文が掲示されていた。

“人間は旅人である。旅をしながら歴史をつくるが、その旅路は人間を育て精神的に豊かにする。すべての旅のうちで最もすぐれたもの、それは神への心の旅。”

 ギクリとさせられた。無宗教の放浪者と自認する私のなまぐさい八十年の生きざまを振り返り冷汗をかく思いがしたからである。

“パライソ(天国)の寺に参ろうや
       パライソの寺とは申すれど
  広い寺とは申すれど
           狭い広いは我胸にあり”

 慶長年間に長崎の子供たちが唄っていたという歌詞の一部である。
                          (新村出:「吉利支丹研究余録」)
 四百余年前、一旦は公許されたキリスト教は為政者の変節で一転邪教として弾圧され、敬虔な信者たちは楽土から地獄に落ちる苦痛を味わされた。悲劇の殉教は最大のものであったが、棄教そしてまた隠れキリシタンとしての苦悩も忘れてはなるまい。江戸幕府時代の痛恨の文化的暴挙は、日本人の心に深い傷跡を残したといえよう。

 長崎空港からフライトする機上で私はそっと眩いた。
 ”長崎よ!感動を与えてくれて有難う”
 次は落合泰先生にお願いします。
 
 ペンリレー <長崎キリシタン断想> から