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<ペンリレー>

発行日2003/11/10
柴田医院  柴田 一
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マッカーサー元帥の忘れ物
 
 昭和二十年八月十五日、天皇陛下の玉音放送により日本は、ポツダム宣言を受諾し敗戦を迎えたのです。私達はこれからどうなるのか不安でした。米軍が進駐して来て日本全土を占領し、米軍による政治が始まりました。これが現在の日本政治の始まりです。
 米軍による最初の政策は戦争犯罪人の逮捕が「軍人政治家」に行われ政治制度の改革で『憲法の改変』『戦争の放棄』『不在地主の廃止』『完需工場破壊』『財閥の解体』『民主政治を行う事』等でした。
 日本の政治を考えますと、中大兄皇子と中臣鎌足が曽我氏を滅ぼし、天皇親政を行うため聖徳太子による大化の改新が行われました。その中に十二官位を作り、公家制度が出来ました。その多数を占めるのは藤原氏(中臣鎌足の一族)であり、荘園を有し天皇の子孫は公家になれず荘園の管理人になり地方に行き、交代で京都の警護を行う北面の武士となりました。保元と平治の乱により先面の武士の一族、平清盛が武力で政権の座につき、藤原氏と同様の政治を行いましたが他方の武士の源氏により二十年位で倒されました。源氏の武士団は京都で政治を行うと平氏と同様になると考え、関東の鎌倉に幕府を作りました。しかし、平氏の一族北条氏に執権を奪われてしまいました。次いで北関東の源氏の武士団が後醍醐天皇の命により鎌倉幕府を倒し、天皇の親政となりましたが武士団から不満が起き、源氏の足利氏が京都に室町幕府を作りました。その後、応仁の乱が起こり政治が乱れ下克上による戦国時代となり織田信長が日本の大部分を平定しましたが、本能寺の変により倒れました。豊臣秀吉が政治を行いましたが、徳川家康に政権を奪われ徳川幕府が江戸で政権の座につきました。
 徳川幕府は約三〇〇年間『士農工商』の経済政策により米の石高により、領地を分け藩として国内の政治を行い対外的には鎖国を行って来ました。二百六十年後、海外からの開国への圧力や国内の倒幕派、長州薩摩の勤皇の志士達により崩壊し、天皇親政となり近代的な国家となって行きます。
 年号も明治となり志士達がヨーロッパに留学し、帰国後官僚となり組織が出来上がり行政官の中央集権国家になりました。明治国家は日清及び日露戦争に勝利し、軍部が強大な力を持ちました。
 大正時代は比較的平和な時代が続きました。昭和になりノモンハン事件、満州事変、二二六事件、五一五事件を経て軍国主義となり、昭和十六年十二月八日が米英と開戦し、昭和二十年八月十五日の敗戦となりました。
 我が国の経済は、徳川時代までは公家、武士階級が領地を所有し、農民が米を生産し、税として藩に納入していました。工商の人達は税を納入しなくて良かったのですが、明治時代から国民の総てが収入があれば納税の義務があるということになったのです。軍人・官僚・政治家は生産業はしないで、税として国に納入されたものを一定年齢まで給与として受け、国民に国のサービスを行ってきました。敗戦により、軍人はなくなり、政治家は民主主義になったので普通選挙を受けることになりました。官僚制度をそのまま残したのは、マッカーサー元帥の国には官僚がないので廃止するのを忘れたのでしょうか?
 次回は鈴木彰先生にお願いします。
 
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